2019年 台湾旅行記 : (長栄海事博物館・国軍歴史文物館)板橋(林家花園)

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October 31, 2019 (Thursday)

Osaka - Japan (大阪 - 日本)

Train
難波駅(22:23発)→ 関西空港駅(23:08着)
南海本線, 運賃 930円
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深夜の関西空港 第1ターミナルは維持管理作業中

テレビニュースでは、難波の戎橋はハロウィンで大混雑らしいが、地下鉄も南海も数人の仮想した乗客を見かけた程度。

空港急行は、ほぼすべての客が泉佐野までで下車。関空まで乗ってる客は、1両に5人ほどで、関空で働く人たちのようだ。

この時間から出発する国際線は台北行きのピーチ航空の1便だけで、空港内を歩く旅行客はほとんど居らず、メンテナンス工事の作業員が行き交っているのが目立った。

Bus
関西空港第1ターミナル(23:30発)→ 関西空港第2ターミナル(23:40着)
南海バス, 運賃 無料
Air
関西空港 第2ターミナル(02:30発)→ 台湾 桃園機場 第1ターミナル(04:20着)
ピーチ航空 MM 021 諸税込み往復運賃 22,350円

November 1, 2019 (Friday)

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ピーチ航空 台湾桃園機場行き A320

飛行機は満員。狭い席でウトウト寝てたら、いつの間にか桃園空港着。外はまだ真っ暗。

他の到着便がないので、入国審査はすぐに終了。その入国審査場は2ゲート開いていて、それぞれ6人ずつほど並んでるだけだった。

到着ロビーにある台湾電信の店に行くと、開店は6時30分と掲示あり。web情報では開店は7時なので、それより30分早い。

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桃園機場 第1ターミナルの入国ロビー
携帯電話会社3社の窓口に貼り出された価格表

ATMキャッシングで現金をゲットし(4,000元, 14,400円相当)、ファミリーマートで肉まん買い(25元, 90円)、ベンチに座って時間を潰す。

6時20分、中華電信の店に行くと一番乗り。店の前で待っていると、私の後ろに5人ほどの待ち行列ができる。5日間300元(1,080円)のSIMカードを購入。その場でアクティベートしてもらう。

同じ場所に遠傳電信や台灣大哥大のお店もあり、中華電信より30分早く店を開けてい。しかし、田舎や僻地が旅行の目的地の場合は基地局の普及が最も進んだ中華電信が安心だ。

Metro
機場第一航廈站(06:43発)→ 台北站(07:20着)
桃園捷運 直達車, ICカード運賃 150元(540円)

SIMカードをゲットするという空港での目的は達成。捷運に乗り台北市街地を目指す。駅の券売機で一卡通(iPASSカード)に1,000元をチャージし、プラットホームに降りると、ちょうど上下両方向の列車が停車している。行き先表示を慎重に見比べて、台北車站ゆきに乗車。

Taipei - Taiwan (台北 - 台湾)

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水煎包チェーン店の老蔡水煎包
ショーケースの雰囲気はどの店も同じ

まずは朝食ということで、新光三越の西側にあるチェーン店の老蔡水煎包へ。鮮肉包と高麗菜包(各15元, 54円)を食べる。この付近には朝食用の豚まん屋やサンドイッチ屋が点在してる。

再び地下街にもぐり、台鉄台北站のコインロッカーにザックを預け(40元/3時間分)、web予約した台湾高鉄の切符を券売機で受け取る。

少し身軽になったところで、台鉄の旧淡水線の跡地に捷運と共に開発された中山地下街を探検しに行く。

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中山地下街の台北站側の入口

1901年、大日本帝国の総督府鉄道が台北駅と淡水駅の間の運行を開始した。当時、基隆港はまだ整備が完了しておらず、淡水港が台北の重要な外港だったため、ここに鉄道が敷かれたそうだ。時は流れ自動車交通が主流の時代となった20世紀末、淡水線は地下化され台鉄から台北捷運(地下鉄)に運営主体が移行した。その地下鉄と同時に整備されたのが中山地下街であり、地上部の遊歩道だ。

ちょうど通勤時間帯で、店がオープンする前の地下道を、大量の人が台北站に向かって歩いてくる。

地上に上がると、アート作品が点在する緑道。こっちのほうが気持ちよく歩けるが、なぜか通勤客の姿はほとんど見かけない。皆さんは地下が好きなんですね…。

1駅先の中山站まで歩き、そこから地下鉄に乗り中正記念堂站

Metro
中山站(08:33発)→ 中正記念堂站(08:40着)
台北捷運, ICカード運賃 16元(58円)
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自由広場の碑楼と中華民国国旗

ここはかつて中正広場と呼ばれていた。中華民国初代総統蒋介石を称えていた広場は、今は自由広場と名前を変えている。碑楼の扁額も「大中正至」から「自由広場」に掲げ替えられている。自由とは抽象的すぎて、立場によって変わるものだが、台湾では「大陸からの自由」を指すのだろうか。

自由広場を横切り、9時ちょうどに長栄海運海事博物館に到着(入館料 200元, 720円)。長栄海運(エバーグリーン)は世界第7位の海運会社で、その緑色のコンテナは日本でもよく見かける。ここは世界最大規模の「商船の歴史博物館」との前評判どおり、古代から現代まで様々な形式の船舶の巨大模型を見ることができる。

長栄海事博物館 (台北市 中正区)

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古代ギリシアのガレー船(三段櫂船)

ガレー船

写真の船はBC5世紀の三段櫂船(トリレーム)で、170人の漕ぎ手が必要だった。古代ギリシア時代には船の先端の尖った所(衝角)を相手の船に激突させる突撃戦法が(サラミスの海戦など)、古代ローマ時代には敵船に接舷して歩兵が切り込みをかける戦法も用いられたそうだ。近世になると大砲が装備されるようになり、大きな海戦ではレパントの海戦がこのタイプの船が使われた最後だ。

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ハンザ同盟のコグ船

コグ船

1本マストで横帆を用いる平底船で、12世紀頃から15世紀頃にハンザ同盟など中世のバルト海の交易で使われた。ヴァイキング船やコグ船など北欧系の船は板を少しずつ重ねながら張る「クリンカー張り」で船腹が造られているのが特徴で、キャラック船やガレオン船など以後の時代の船は重ね張りではない「平張り(カラベル張り)」が用いられた。平底の船であるため、浅瀬や砂洲が多いバルト海沿岸でも航海することが出来た。

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コロンブスが用いたキャラック船
「サンタ・マリア号」

キャラック船

北欧系のコグ船、南欧系のキャラベル船の長所を受け継いだ船で、3本マストを持ち、前方と中央のマストに横帆、後方のマストに縦帆(ラテン帆、三角帆ともいう)を装備して逆風でも進むことが出来た。14世紀から15世紀頃の大航海時代に地中海地方で多く造られた形式。遠洋航海に適した大型船で、高波でも安定性を保てる平張りの丸い船体を採用している。

1492年のコロンブスの新大陸到達、1498年のヴァスコ・ダ・ガマのアフリカ最南端を経由するインド航路発見、1515年のポルトガル船隊のアジア到達、1522年のマゼランの世界一周はキャラック船がなければ不可能だった。

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イギリスのガレオン船
HMSソブリン・オブ・ザ・シーズ

ガレオン船

キャラック船が発展した形式で、16〜18世紀頃に多く造られた。キャラック船に比べて全長比が長くなり、4本から5本のマストを持ち、より速度が出でるようになった。また船尾楼が大きく、船体の装飾が派手になったのも特徴。時代は、新天地の発見から貿易権益の維持に変わったため、大砲が装備され重武装された。写真の船は100門以上の大砲を装備した戦列艦で、艦隊による一斉砲撃戦術がこの時代の特徴。

スペインが植民地との間の輸送に採用したインディアス艦隊(16世紀〜18世紀)や、英西戦争でのアルマダの海戦(1588年)、ナポレオン戦争でのトラファルガーの海戦(1805年)で使われた船はこのガレオン船だ。

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快速帆船クリッパー

クリッパー

19世紀の快速帆船で、帆船としては最終的な完成形だ。武装や大きな船倉などを諦めスマートな船体を採用し、とにかく速度が出る船体とした。中国からイギリスへ茶葉を輸送する船を「ティークリッパー」、オーストラリアから羊毛を輸送する船を「ウールクリッパー」などと称した。

同時代、蒸気船が実用化され風に影響されず航走出来ることから、帆船は次第に衰退し使われなくなっていった。

外輪式蒸気船

イギリスのジェームズ・ワットが1769年に開発した蒸気機関は産業革命・交通革命のはじまりとなった。1807年にはアメリカのロバート・フルトンが外輪式蒸気船を、1825年にはイギリスのジョージ・スチーブンソンが蒸気機関車を「実用化」した。

外輪式蒸気船は貨物船や旅客船から普及し、その後軍艦もこの形式となった。しかし、外輪が攻撃を受けると航行できなくなるという弱点もあった。幕末、日本に開国を求めてやってきた黒船のうち2隻(サスケハナ号とミシシッピ号)は外輪式蒸気船である。

蒸気タービン、スクリュー・プロペラ方式の船

1830年代にスクリュー・プロペラが実用段階に入り、徐々に外輪船から置き換わっていった。また、20世紀初頭にはレシプロ式蒸気機関が蒸気タービンに置き換わり、燃料も石炭から重油へ切り替わってゆき、

その後の歴史は、ディーゼルエンジンやガスタービンエンジンが一般的となり、一部はエンジンで発電した電気でモーターを回すディーゼル=エレクトリック方式ターボ=エレクトリック方式の船もある。

文明が始まってから現代までの船舶技術史を堪能し、次は20世紀前半の代表的な軍艦の展示だ。

船舶技術史は古代から中世のヨーロッパと、近現代のアメリカのものが中心だった。これらの地域で発展してきた技術が、現在の船舶技術のベースになっているからだ。

しかし、軍艦の展示は日本が交戦した国々を中心に展示されている。太平洋戦争を戦ったアメリカやイギリス。日露戦争のロシア。そしてもちろん日本海軍の艦船の模型が数多く展示されている。

台湾の人たちが思い描く「20世紀の海上戦争」の範囲は、なんと日本人が考えている範囲と似ているのだろう…。

各国の軍艦

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ロシア/ソ連 防護巡洋艦「アヴローラ
1917年のロシア革命発端となった艦船
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アメリカ 空母「エセックス
第二次大戦でレイテ沖海戦や沖縄戦に出動
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日本 潜水空母「伊四百型
第二次大戦期の世界最大の潜水艦
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ドイツ 戦艦「ビスマルク」
第二次大戦期のドイツ最大級の戦艦
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コンテナ船の機関室制御盤

こののち、現代の航海技術の展示や、コンテナ船の操舵室や機関室制御盤の展示などがある。このあたりは、長栄海運のホームグラウンド事業そのものなので、実物展示に抜かりはない。しかし、最新の操船監視コンソールや制御盤ではなく、20年以上前のものを置いているのは、廃船となったコンテナ船から撤収した部品を再利用しているのだろう。

過去から現代まで、あますところなく船舶の歴史を堪能して博物館を後にする。

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YouBikeで自転車を借りる

さて、昼食を食べに円環まで行こう。ここから台北車站を挟んで北西へ2.5kmほどある。博物館と中正紀念堂との間にあるレンタル自転車YouBikeのステーションがある。今朝、中華電信のSMS可能なSIMカードを購入したのだから、一卡通(iPASS)カードの自転車レンタル機能を、レンタル自転車のキオスク端末で有効化する。クレジットカードで借りるより、貸出・返却の手続きがカードをタッチするだけと大幅に簡略化出来る。

Bicycle
中正運動中心(10:50発)→ 円環站(11:15着)
レンタル自転車 微笑單車(YouBike), ICカード料金 5元(18円)
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円環の弁当屋「重慶飯包」

海事博物館の横より林森路をまっすぐ北へ走り、1989年に台鉄が地下路線化した後に造られた市民大道の高架道路下を西へ。台北車站に隣接した都心部に、かつて台鉄の鉄道敷だった空き地が高架道路沿いに続いている。どうしてここを都市開発しないのだろう…。台北車駅北側の道路は車が入り乱れ歩道は狭く走りにくいので、少し迂回して円環に到着。

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排骨飯 60元(重慶飯包)

円環の自転車レンタルステーションのすぐ目の前、重慶北路の弁当店(かつては自助餐とよんでいた類のビュッフェ形式の店)に入る。看板に描かれたコックのエプロンには「50」と書かれていて、かつては50元だったのだろう。いまはどのメニューでも60元。次々と客が来て弁当を買っていく。私が注文したのは排骨飯。野菜料理が3品つき、中華スープはセルフで飲み放題。これで60元(216円)とは安いものだ。

次の目的地は、西門站の近くにある国軍歴史文物館。弁当屋の目の前にバス停が有り、次々にやってくるバスを見ていると西門経由の路線が多い。適当なタイミングで到着したバスに乗車。

Bus
円環・重慶(11:38発)→ 小南門(11:48着)
大南汽車 223路, ICカード料金 15元(54円)

国軍歴史文物館

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国軍歴史文物館の正面に据えられた5inch 後装式
アームストロング砲と12cm 後装式クルップ砲(手前より)

小南門と西門のちょうど真ん中付近に、国軍歴史文物館がある。入館料は無料だ。

ここは中華民国軍(主に陸軍)の歴史を、北伐統一(1921年〜1928年の北伐と中華民国の中国統一)、抗日戦争(1937年〜1945年の日中戦争)、反乱平定及び台湾海峡戦役(1946年〜1950年の第二次国共内戦と金門島をめぐる古寧頭戦役金門砲戦)の3本建てで説明している。

また、近代から現代にかけて主に台湾陸軍で用いている小銃や榴弾砲などの銃砲類の展示もある。

対日抗戦

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盧溝橋事件(七七事変)のジオラマ展示

解説文によれば “8年に及ぶ抗日戦争は中華民族がその生存と国家の独立をかけた聖戦でした。重要な会戦は22、主な遊撃作戦は175、大規模な戦闘は1100以上、兵士の損失は320万人以上、軍民同胞の死傷者・行方不明者は2100万人以上” というのが、中華民国としての日中戦争の総括だ。

戦争期間が8年というのは、盧溝橋事件(中国では七七事変と呼ぶ)が起こった1937年からを数えているのだろう。日本では1931年の柳条湖事件から数えた十五年戦争という言い方もある。

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日本軍兵士の遺品である千人針と慰問袋

抗日戦序幕
“日本は1931年の満州事変で東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)を占領したのち、翌年には上海事変を起こし、同時に満州国を建てました。更にその翌年、熱河省を占拠、長城を侵犯して塘沽協定の締結を迫りました。(中略) 中華民国は日本軍の度重なる軍事的挑発に対し、じっと耐えると同時に積極的な開戦準備をすすめる「安内攘外政策」(国内の敵を一掃した後に外国の侵略に対応する)で、共産党を掃討して建設を進め、時間を稼いで日本軍に備えるという構想です”

日本は満州を中心とする中国東北部周辺に留まり続け、中国は第一次国共内戦にかかりきりだった。この博物館では、この期間の展示物はほとんどされていない。

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“南京入城・保定入城”と書かれた日章旗

抗日戦前期
“1937年7月に盧溝橋事件がおきてから翌年10月に広州、武漢を撤収するまでが抗日戦争初期にあたる。この時期、国軍の主要戦略は「持久戦」である、重要な拠点を選んで日本軍を狙撃し、一気に進攻してくるのを遅らせようとした。これに対し、日本軍の戦略は「速戦即決」で、熾烈な攻勢と残酷な虐殺により中国が降伏するよう仕向けようとした”

日本は7月に北京、天津を、8月に上海、10月に石家荘、11月に蘇州、12月に南京と占領地を広げ続けた。

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抗日戦初期、長江に敷設された民国軍の機雷(水雷)

南京大虐殺が起きたとされるのもこの時期、1937年12月のことだ。日本は1938年10月には広州、武漢まで占領地を広げ、中華民国政府は南京から武漢、重慶へと首都を移して抗戦を続けた。

1937年8月13日に“日本海軍陸戦隊向我上海保安隊発動攻撃、並前後集結精兵達30萬、輔以大砲、飛機、猛力進攻、宣告「三月亡華」的政策”とされる第二次上海事変(中国では淞滬会戦と表記)が勃発。「三月亡華」とは、「3ヶ月以内に中国を降伏させる」とした日本の政策のこと。その後、中国軍が上海の日本軍陣地や艦船、杭州などを空爆した「八一四空戦」は“我国空軍史上燦爛的一頁”と解説されている。しかし、この空爆で民間人3000人以上が巻き添えで死亡したと日本側が発表したのに対し、爆撃を行った側の中国の立場では一切触れずに真偽も含め黙殺のようだ。

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民国軍が使用した鉄兜はドイツとイギリスからの
輸入品と、日本軍からの鹵獲品

抗日戦中期
1938年から1941年12月に太平洋戦争が始まるまでの期間を抗日戦中期とし、“戦線は基本的に膠着状態に入っており、一方で国民・共産両党は互いの占領地内で戦闘を繰り返していた。この時期の戦闘は350回以上あり、国軍が攻めて勝利を収めた戦いが3分の2を占めていました”

国民党側の見方によれば、太平洋戦争が始まる前の段階で、大陸では日本が押し返されつつあったようだ。

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蒋介石が得た「国光勲章」や、1945年9月の南京
降伏式で民国軍何應欽将軍が用いた筆記具

抗日戦後期
太平洋戦争勃発後、最初の2年間は前線は基本的に膠着状態で、1944年になって日本軍は南洋戦線に呼応して「一号作戦」を発動。北京・漢口、広東・漢口のラインを切り開き、一時は四川基地を脅かしました。しかし、アメリカ軍が太平洋において反撃、勝利して日本本土を脅かしたため、日本軍は内陸に深く侵入することはできなくなりました”

そして、1945年8月に日本が連合国に降伏したことで“8年に渡る苦難の抗日戦がここについに栄光の勝利を迎えたのです”

台湾の人たちが教わっている「中国抗日戦争」と、日本人が教わった「日中戦争」の大きな流れについて、齟齬がないことがここの展示でよくわかった。大陸中国や韓国が事実を都合よく隠蔽、誘導して歴史を教えているのとは大きな違いと感じる。

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全面反乱:共産党軍(人民解放軍)が国民党軍を
大陸から追い落とす

戡乱(第二次国共内戦)と台湾海峡危機

ここから先の展示は、日本の学校ではあまり教えられていない内容だ。

“抗日戦争中に民国軍は必死で奮戦したが、共産党軍は「七分発展、二分応付、一分抗日」の戦略で自らの勢力増大を図った。抗日戦勝利を見計らって共産党軍は疲弊した民国軍を幾度も悩ませ、版図を拡大した。1947年7月、国民政府は共産党を掃討するため「動員戡乱時期臨時条款」を制定し、ここに第二次国共内戦が全面的に開始された”

そして、大陸で国民党は次々と打ち負かされ

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1949年10月 古寧頭戦役の民国軍

“反乱平定作戦は1948年9月から1949年11月の遼瀋、平津、徐蚌(淮海)の三大会戦で劣勢に転ずるようになった。国軍は指揮系統が乱れ、共産党軍に各個撃破されていった”

そして民国は台湾に本拠を移し…

“1949年4月に共産党軍が長江を渡った後は、各地の民国軍の抵抗も空しくなり、1950年3月に西昌を撤収して大陸地域はすべて共産党軍の手に落ちた。民国政府は1949年12月に台北に遷都。金門と媽祖の両地域を残して島部からも1950年から55年にかけて相次いで撤収”

大陸沿岸部の島々からもほぼ撤退し、民国が支配する地域は現在の領土・領域となった。

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台海戦役:台湾海峡危機

金門戦役(古寧頭戦役)登歩島戦役
1949年10月、共産党軍1万以上が金門島の古寧頭に上陸侵攻。民国軍が応戦し戦闘は熾烈を極めた。3日後、上陸した共産党軍1000人はすべて投降した。また、49年11月には、共産党軍が登歩島に上陸侵攻。迎え討つ民国軍は3100人の死者を出しながらも3日間で共産党軍を撃退。5000人以上を戦死させ、300人以上を捕虜にした”。

中華民国が金門島を死守し現在も自国領としているが、登歩島はその後の包囲戦に敗北し1950年に民国軍が撤収し中華人民共和国領となっている。

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現代の銃砲類の大量展示
(手前はライセンス生産中Mk19自動擲弾銃)

八二三台海戦役(金門砲戦)
1958年8月、340門以上の共産党軍の大砲が突然、金門島の国軍施設を砲撃した。折しも夕食の時間帯であり、副司令官を含む400人以上が死傷した。このひから連日砲撃を受け、金門には47万発以上の砲弾が打ち込まれた。これに対し、アメリカから提供された「M55八インチ自走榴弾砲」12門で反撃。共産党軍の砲撃陣地やアモイ駅を破壊し大きな損害を与えた。共産党軍は「原子爆弾で反撃した」と非難し一方的に停戦を宣言した”。

古寧頭戦役など「前半戦」では旧日本軍の軍事顧問が指導し、日本軍から鹵獲した兵器を中心に戦ったが勝敗は付かず。「後半戦」の金門砲戦ではアメリカ軍の兵器と軍事顧問が投入され大勝利。

45万発もの砲弾が降り注いだ金門島に籠城し持ちこたえたのはすごいことだ。しかし、仮にソ連が中国に巨大自走砲(ISU-152コンデンサトール2Pなど)を大量提供していたら、どうだっただろうか。二大共産国家の仲違いが、自由主義国陣営に有利に働いたと言えるだろう。

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F-16戦闘機(A/B型)の模型

日中戦争、国共内戦・台湾海峡危機の展示の次は、現有兵器の展示室がある。銃砲や砲弾の展示、航空機や艦船の模型展示だ。最近、アメリカから追加購入の道が開けそうになっているF16戦闘機が、主力装備として大きく展示されている。はたしてこれで人民解放軍のステルス戦闘機に対抗できるのか…。

軍史館を見学している高校生が感想文をまとめていたが、金門島防衛戦など一部だけはやたら細かく、通史としては簡潔にしかわからない展示内容では、感想文を書くのも難しいんじゃないだろうか。

Bicycle
中華桂林路口 小南門(12:55発)→ 華西街夜市 → 市民太原路口 台北車站北側(13:18着)
レンタル自転車 微笑單車(YouBike), ICカード料金 5元(18円)
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龍山寺の西隣にある華西街夜市

13時頃、博物館を出て今日宿泊する板橋に向かうことにする。

小南門で自転車を借り、台北駅とは向きが違う西へ。800mほど行くと華西街夜市がある。ここは昼間も営業する店が多いアーケード商店街だ。

台北にある夜市の中で異色の“ゲテモノ料理”が有名で、この付近の万華地区には売春街もあるというディープな場所。が、真っ昼間のアーケード街は普通っぽいフードスタンドが並ぶ商店街に過ぎない。やはり夕方以降に来ないと面白みはないのか…

淡水河の右岸に沿った環河快速道路の高架下側道を走り、台北站を目指す。高架下側道は小型車、バス、スクーターが入り乱れ、チンタラ自転車で走っているといつ事故に巻き込まれても不思議ではない道だ。

Banqiao, Xinbei - Taiwan (新北市 板橋区 - 台湾)

Metro
台北車站(13:34発)→ 府中站(13:48着)
台北捷運, ICカード運賃 24元(86円)
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台北捷運 府中站で下車

台北站地下道のコインロッカーで荷物を回収。3時間を越えていたので、さらに40元(144円)が徴収された。

地下鉄に乗り新北市板橋区へ。ことしの春にもここの駅で降りて夜市を見に行った。今回は府中站のそばにある簡易ホテルに宿泊する予定だが、チェックインする前に1箇所見に行きたいところがある。それは、林本源園邸(林家花園)だ。清朝末期に、この地の豪族“林氏”が建てた豪邸で、その庭園が一般公開されている。

林本源園邸(林家花園)

府中站から北へ。林本源園邸の斜め向かいにあるファミリーマートで巨大ヤクルト比非多(30元, 108円)で喉を潤してから、庭園に入場。門票は80元(288円)。平日だが、写真撮影にぎりぎり入り込まないレベルで客が歩いている。

ここは中国によるある池泉回遊式の庭園で、建物の間を結ぶ回廊を歩きながら、池や奇岩を眺めるような仕掛けだ。同じ東アジアでも、日本庭園とは趣が全く違い、やはりここは中華文化圏だと認識させられる。

庭園に隣接する19世紀中頃に建てられた巨大な邸宅「三落大厝」は、予約参観のみを受け付けているようで、入口は閉じられていた。

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林本源園邸 観稼楼
(多数の門と透かし窓のある壁が特徴)
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林本源園邸 来青閣
(来賓の招待所、宿泊所として使われた)
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林本源園邸 方鑑斎と戲亭
(文人墨客が集まり詩の吟詠や唱和を嗜む場所)
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林本源園邸 三落大厝
(1853年に竣工した板橋林家の最初期の邸宅)

慈恵宮 黄石市場

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板橋宮口街の高記生炒魷魚

15時、webで予約した府中駅の横にある簡易ホテル「単人房台北館」に行きチェックイン(1泊 746元, 2,685円)。部屋は一応個室だが、天井部分が廊下とつながっていて消防法上は個室ではないという考え方の構造。いわゆる、ネットカフェの個室タイプにベッドを置いた感じのところだ。

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生炒魷魚(45元)炒蘿蔔糕(20元)糯米腸(10元)

荷物を部屋に置き、部屋の扉に鍵をかけて夕食を食べに出かける。

板橋慈恵宮の門前通りらしき路地(菜園街と宮口街)に、フードスタンドが建ち並んでいる。Googleマップで評価の高いイカスープ店「高記生炒魷魚」に入る。このお店のオススメ料理 生炒魷魚(いわゆるイカスープ 45元, 162円)炒蘿蔔糕(大根餅 20元, 72円)糯米腸(もち米の腸詰め 10元, 36円)を次々と注文して食べてみる。なかなか美味だ。

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宮口街を練り歩く祭礼行列
(千里眼と順風耳の媽祖神)

店内の狭いイートイン席で食べてると祭り囃子の音楽が近づいてきて、路地を媽祖神 千里眼と順風耳の神像を伴った祭りの行列が通り過ぎてゆく。調理台やガラスケースで、練り歩いているだんじりの上半分しか見えない…。

食後、祭りの正体を見極めに板橋慈恵宮を見物に行くが、普通の媽祖廟で祭りをやっている雰囲気はなかった。ここは大都会にあり土地が狭いため、3階建ての建物内をぐるぐる回って、いろんな神様にお参りする形式になっている。かつて、この建物の一角に鴻海精密工業の創業者で台湾有数の富豪の郭台銘が住んでいたという。そのため、ここの媽祖廟は財経にご利益があるとも言われているそうな…

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炒青菜(地瓜菜)と魯肉飯

再び門前町の安食堂街へ。こんどは「宮口38油飯赤肉湯」というお店に入り、魯肉飯(30元, 108円)に炒青菜(地瓜菜 30元, 108円)を食べる。もうお腹いっぱいです。

府中から板橋站のほうへ行ってみる。駅付近には近代的なビルが林立し、ビルの間をつなぐ歩道橋や道路が複雑に入り乱れ、見かけよりもたどり着きにくい。ここは近代的建物の中にちょっと高級そうな店ばかり。下町で安食堂が集まる府中站前と全く違う雰囲気の場所だ。

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単人房住宿 台北館の部屋
部屋のスライド式ドアは鍵付き

風が強くなり、雲がものすごい速さで流れている。天気予報では曇り時々雨だが、今のところ傘の出番はない。府中站まで歩いて戻り、バス停横の老蔡水煎包で鮮肉包(16元, 58円)を食べる。

ホテルに戻り、大浴場へ。日本風の大浴場は台湾の人たちには馴染みが薄いのか、他の入湯客は居らず私一人でのんびりと湯船に浸かる。

Hotel
単人房住宿 台北館 泊
514号室 簡易シングルルーム 746元(2,685円)/1泊