韓国の歴史教科書 KOREAN TEXTBOOK OF HISTORY
韓国の高等学校の歴史教科書は興味深いです。  (2002年現在では、1バージョン昔のものですが)

日本の教科書にクレームをつける彼らの「教科書」を知っておくのも必要ではないかと思い、ここに一部抜粋して転載します。(とくに日本にかかわるところと、韓国の変遷がわかる程度の記述で…)

古代 〜 江戸時代ごろ をこのページに、
明治ごろ 〜 第2次大戦ごろ を 次のページに転載しています。

しかしながら、「…を教えてやった・伝えてやった」的な記述の仕方と、感情的な形容詞を多用した教科書です。

「…」は文章を飛ばしていることを示しています。文章を飛ばすことで、ストーリーがゆがまないように注意したつもりですが、なにぶん素人が編集していますので、もしおかしなことになっていてもお許しください。

これらの文書は、読者にある特定の思想を強要するものでもありませんし、ここに書かれている事が真実かどうかはこのホームページの製作者は論評を避けさせていただきます。


I 韓国史の正しい理解
1.歴史学習の目的
   (1) 歴史と歴史学

歴史の理解は厳正な科学的認識を土台にしたものでなければならない。事実を離れた恣意的解釈と叙述は歴史の真実をゆがめるからである。


■ ワールドカップで分かった、韓国人の歴史認識 (2002/05/31 追記)

ワールドカップ開会式の、金大中大統領の開会の言葉

親愛なる地球村の皆様、尊敬するブラッターFIFA会長、 世界各国のご来賓の皆様、そして32ヶ国の代表チームの皆様。 非常にお目にかかれて嬉しく思います。
皆様全員を心より 歓迎いたします。
本日、これまで我々全てが待ち焦がれてきた 21世紀初の2002年FIFAワールドカップの開幕を心からお祝い 申し上げます。ここにいらっしゃいます皆様は、そして世界60億 の皆様は今日から一ヶ月に渡り世界最高レベルの迫力あるサッカ ー競技をご覧になります。この大会を通じて全世界の人々が人種 と文化、理念と宗教を超えて一つになることができるでしょう。
また全世界の人々が21世紀の世界の平和と安全、そして人類共栄の 貴重なる価値を改めて確認する機会になることを期待いたします。
尊敬する皆様。皆様はここ大韓民国で5000年の輝かしい歴史と韓国 の伝統文化、そして21世紀の繁栄を約束するIT、科学技術が調和した 韓国の真の姿を発見されることでしょう。また、いたるところで 韓国人のあたたかい笑顔とまごころに触れることになるでしょう。 将来の国の発展と人類の共同の繁栄のために最善を尽くしつづける ダイナミック・コリアも体験してください。
平和とサッカーを愛する地球村の皆様。今回の大会を通じ、世界の 平和と人類の和合の新たな時代が開かれることを期待しつつ、 韓日両国の友好親善の21世紀が開かれることを祈ります。
ただいまから、2002韓日FIFAワールドカップの開幕を宣言いたします。

大統領ともあろうものが、こんな妄言を言っていいものなんでしょうか。5000年。(プッ
世界4大文明の中国に比肩するとでも…   あきれて物も言えません。
北東アジアのおおよその共通認識は、次のような年表のはず。(中国と日本の歴史年表を足して2で割りました。この年表に関してはで文句をたれないように。あくまでも個人的資料)

(韓国の事実上の宗主国であった中国では、「朝鮮半島は中国領土。」と2001年に訪れた陜西省歴史博物館では紹介されていましたが…。日本の教育を受けた私も、そういう認識です。中国は「皇帝」、朝鮮は「王」、「皇帝」>「王」の服従関係がある。日本は「天皇」、中国皇帝に服従しているわけではない。それにもかかわらず、韓国は天皇陛下のことを「日王」と言うんだからね。)

ちなみに、最近得た情報では、中国の歴史は5000年らしいです。(数年前までは、4000年で、10年程前は3000年だった。急速な伸びだな。確固たる証拠がある王朝は「殷」のBC1600ごろ。「夏」は現在研究中らしい。)

アメリカ合衆国の中央情報局が調査したデータ(World Factbook)によれば

中国 221BC (秦により統一) 1949AD (中華人民共和国)
日本 660BC (神武天皇により建国)
朝鮮・韓国 1945AD (日本から独立)

やたら、中国の歴史が短いのも気になる。アメリカとしては、「国家として独立・統一」が前提なんだろう。

ついでに言えば、これは「韓国と日本の共同開催」のはず。日本の高円宮殿下、小泉首相が列席しているにもかかわらず、紹介もなし。(FIFA会長の名前は出しているが)
小泉首相の開会の言葉(金大中大統領の前に発言)では、金大中大統領を紹介していた。
(完全に自己中心的、かつ、あからさまな差別意識をもっているのはどちら?)

2002ワールドカップを迎えて、報道機関が「韓国との友好」を報道するにつけ、「その偏向した、報道」でもううんざりです。私も、韓国には何の興味(利害)も無かったんですが、最近、胡散(うさん)臭い感じを受けています。
(開会式を中継しているNHKの必死さが、なんだか浮いていました。視聴者に韓国が日本との共同開催を完全無視して、韓国色一色で開会式をやっていたため、それを見せまいとインタビューとか他の中継とか…。奇妙です)
私としては、今後も韓国に対しては、「嫌韓」にはならず、いままでどおり「無関心」のレベルで行こうと思ってますが…

まあ、どちらの教科書がプロパガンダなのか、以下の韓国の教科書でもご覧ください。(このワールドカップ時の新規記述には影響されないで…)


II 先史文化と国家の形成
2. 国家の形成
   (2) 古朝鮮の建国
檀君と古朝鮮


 もっとも早く国家として発展したのが古朝鮮であった。古朝鮮は檀君王倹によって建国されたと言う(BC 2333)。檀君王倹は当時の支配者の称号であった。

 古朝鮮の建国事実を伝える檀君神話は長年月にわたって伝承され、記録として残されたものである。

 

2. 国家の形成
   (3) 諸国の成長
高句麗は扶餘から南下した朱蒙によって建国された(BC 37)。

漢江以南の地域には早くから辰が成長していた。辰は紀元前2世紀ごろ、古朝鮮の妨害で中国との交通が阻止されたこともあった。 … 馬韓、辰韓、弁韓の連盟体が現れるようになった。

 


III 古代社会の発展
1. 古代社会の形成
   (2). 韓国の古代社会
初期の高句麗

… これらの部族は中国文化と北方の遊牧文化に接した経験が類似しているために、高句麗は結束力を強化し、征服国家体制へ転換することができた。
高句麗の成長過程で太祖王の時代はきわめて重要であった。まず、周辺地域に対する征服と統合がより活発に展開され、顕著な対外発展がとげられた。咸鏡道地方の沃沮を征服して、満州地方へ勢力を拡大させ、楽浪に対しても終始圧力を加えた。 …

初期の百済

百済の社会は、北方から移ってきた流移民と、漢江流域の土着民集団が結合してできた。 … 百済は漢江流域に位置した馬韓の一小国から出発した。高句麗の朱蒙の息子の温祚が南下して、河南の慰礼城に首都を定めて百済を建てた(BC18)。その首都は今日のソウル地域であった。 …

初期の新羅

… 韓半島東南部に偏っていて、新羅は三国の中で発展が最も遅れた。慶州地方の斯盧国から発展した新羅は、朴赫居世によって建国された(BC 57)。 … 周辺の諸国を征服して慶北地方一帯の大国に成長した新羅は、4世紀後半、奈勿王のときになって中央集権国家に発展した。 …

伽那連盟

三国が国家組織を整備して発展していたときに、洛東江下流流域の弁韓地域では別の独立した勢力が成長していた。 … 連盟体の盟主である金官伽那は金首露によって建国された(BC 42)。 … しかしついに三国のような中央集権国家としての政治的発展をとげることはできなかった。これは、地域的に百済と新羅の中環に位置して両国の角逐の場となり、両国の圧力を受けて、不安定な政治状況が続いたためである。 … 新羅はこの地域に百済と倭の勢力が影響を及ぼすことを恐れて、急遽、軍隊を起こして併合した(532年)。 …

「伽那 = 任那」 のことでしょう。親日国と見られている「伽那」は、「三国」には入らず、国としても認められていないような感じです。ちなみに、日本の歴史資料によれば、新羅が伽那を侵略したときに、日本から援軍が伽那に向かったとの記述もあります。

2. 古代の政治的発展
   (3) 三国統一
百済・高句麗の滅亡

高句麗、百済の圧力に苦しんだ新羅は、積極的な対唐外交を推進していた。そうして、 … 再侵略の期待をうかがっていた唐と手を握った。新羅・唐連合軍は、まず百済を攻撃した。 … 百済を滅ぼした後、新羅・唐連合軍は水陸両面で高句麗を攻撃したが、 … そしてついに高句麗の平壌城も陥落した(668年)。

新羅の統一

… 新羅の対唐戦争は、 … 唐の勢力を完全に追い出したことによって三国の統一をなしとげた(676年)。

三国統一は、その過程で外勢の協力を得たと言う点と、大同江以南の統一にとどまったと言う点で限界がある。しかし、新羅が唐の勢力を武力で追い出した事実は、三国統一の自主的性格を見せている。

 

4. 古代文化の発達
   (4) 芸術の発達
統一新羅の美術

統一新羅時代の美術は熟練した技巧の産物であった。 … 新羅の首都慶州にある宮城内の人工池である雁鴨池は、池の堤全体を石で堅く積み上げて造ったものだが、ここから出た多くの遺物によって絢爛たる当時の宮中生活と貴族生活の様子を推測することができる。とくに、湖水内の屈曲や島の位置、東屋と楼閣の配置などは庭園の造園術が高い水準に達していたことを見せている。
統一新羅の代表的な芸術作品は石窟庵と仏国寺である。
石窟庵はその中に本尊仏像を中心にして菩薩象、羅漢像、仁王像などを配置して、仏教世界の理想を表している。その緻密な構成を支える均整美は、当時の新羅の建築技術や彫刻あるいは科学技術の高い水準を表している。
仏国寺は吐含山を背景にして、広く開けた前面を見渡して建てられたが、木造建築物は壬辰倭乱のときに燃えてしまった。石像物と基壇は今日まで残っていて、新羅仏教美術の高い水準を見せてくれる。 … 大雄殿の前に立っている三重石塔と多宝塔は洗練された美しさを見せている。
梵鐘の鋳造技術も優れており、上院寺銅鐘はもっとも古いもので、聖徳大王神鐘は大きくて勇壮であると同時に彫刻が綺麗であるばかりか、音の美しさがとくに有名である。

 …

郷歌と音楽

… 百済の音楽は高句麗と似ており、日本に伝えられて日本の音楽に多くの影響を及ぼした。
… 一方、渤海でも音楽と舞踊が発達した。渤海楽は日本に伝えられ、日本は楽工を渤海に派遣して音楽を習わせた。 …

旅日記にある「慶州」に関する記述

4. 古代文化の発達
   (5). 古代文化の日本伝播
三国文化の日本伝播

新しい文物を持って日本に渡ったわが国の人たちは古代の日本人を教化した。
百済の阿直岐と王仁は日本に渡って漢文を教えたが、このとき漢学は日本人に文学の必要性を認識させ、儒教の忠孝思想も普及させた。また、百済は仏教、仏像と五経博士、医博士、暦博士、そして画家と工芸技術者等を送ったが、その影響で五重の塔も建てられ、百済伽藍という建築様式も生まれた。
一方高句麗も日本文化に多くの影響を及ぼした。高句麗の僧侶慧慈は日本の聖徳太子の師となり、曇微は儒教の五経と絵画を教え、紙と墨の製造方法まで伝えた。日本に自慢の種である法隆寺の金堂壁画も曇微の絵だといわれている。とくに現在日本の各地に残っている古代の仏像のなかには、その形や特徴から見て三国の影響を受けたものが多い。
新羅では築堤術と朝鮮酒を日本に伝えたが、とくに築堤術の伝播で韓人の池という名前まで生まれるようになった。この他に三国の音楽も伝えられ高句麗楽、百済楽、新羅楽などの名前で生まれ、日本音楽の主流を成すに至った。

こうして三国時代にわが国の流移民が日本列島に渡って、先進技術と文化を伝え、大和政権を誕生させ、日本古来の飛鳥文化を成立させるのに貢献した。

統一新羅文化の日本伝播

三国文化に続いて統一新羅の文化も日本に伝播した。日本に伝えられた新羅の政治制度は、大化の改新以後の強力な専制王権の確立に寄与した。
また、統一戦争で見せた新羅人の強烈な国家意識は、日本の指導者たちに大きな影響を与えたりもした。
統一新羅文化の日本伝播は、日本が新羅に使臣を派遣することで進められた。 …

 


IV 中世社会の発展
1. 中世社会への転換
   (2) 中世の世界
高麗の建国

後三国の分裂は、新羅社会の矛盾と地方勢力の台頭によるものであった。この後三国の分裂を収拾し、民族の再統一を成就した指導者が王建であった。
… 王建は臣下の推薦で即位すると、国号を高麗とし(918年)、都を自分の勢力の根拠地であった松岳に移した。…

 

2. 中世の政治的変遷
  (4) 対外関係の変遷
蒙古との戦争

蒙古は契丹族を討伐した後に、… 軍隊を率いて侵入してきた(1231年)。

そのときはいつも高麗人は粘り強く戦って蒙古の進入をよく防いだ。高麗は蒙古の侵入を防ぐことができたのは、一般民衆が侵略群に対抗して勇敢に戦ったからである。 … しかし引き続く蒙古の侵入で国土は極度に荒廃し、 … 貴重な文化財が多く焼失した。

元宗はついに蒙古と和議を結び、開京に遷都した(1270年)。開京遷都は蒙古に対する屈服を意味するものであったため、…

 

2. 中世社会の変遷
   (5) 高麗の試練と自主性の回復
自主性の試練

高麗は蒙古との講和以後自主性を著しく損なうに至った。講和後、高麗が最初に受けた試練は日本征伐に動員されたことであった。高麗は、国号を元と変えた蒙古の強要によって日本征伐のための軍隊を始め多くの人的・物的資源を徴発された。 … しかし2次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征は、台風によって全て失敗に帰した。

高麗はまた領土の一部を奪われた。 … 一方、高麗は元の強要によって官制も変えなければならなかった。 …

恭愍王の反元改革政治

14世紀後半に恭愍王は、元・明の後退期を利用して反元自主政策を推進した。 … しかし恭愍王の時代に大いに進出した新進士大夫勢力は、その後、改革を粘り強く推進し、この過程で高麗が滅亡し、朝鮮王国が建国された(1392年)。

 「日本征伐」 = 「元寇・蒙古襲来」 のことでしょう。


V 近世社会の発達
2. 近世の政治的変化
   (4) 倭乱と胡乱
壬辰倭乱の勃発

このころ日本では豊臣秀吉によって長期間に渡った戦国時代の混乱が収拾されていた。豊臣は国内政権の安定のために、不平勢力の関心を外に集めると同時に自らの征服欲を満足させるために朝鮮と明に対する侵略を準備した。
1592年4月、倭軍が侵略を開始した。倭軍が侵略してきて、釜山鎮と東莱城では鄭撥と宋象賢が奮戦したが、ついに陥落されてしまった。倭軍は三つに分かれて漢陽をめざして北上した。これに対して忠州で申立(石へんの立)が背水の陣を布いて戦ったが、武器と戦略の不備で敗れた。朝鮮朝廷は倭軍を避けて義州へ避難し、倭軍は漢陽を占領して北上をつづけ、平壌と咸鏡道地方まで侵入した。

倭乱の克服

朝鮮政府は、はじめは倭軍の攻勢におされて、 … 守勢を免れることはできなかった。しかし、水軍と義兵の勝利で戦況が逆転し、倭軍を撃退するに至った。
戦争が長期化して朝鮮は明に援軍を要請し、明軍が戦争に参加した。朝・明連合軍は平壌城を回復して倭軍を南に追い出した。このとき権慄は辛州山城で倭軍を大いに打ち破った。
以後戦争は小康状態に入り、休戦会談が開かれた。しかしおたがいの主張が違って、3年間にわたった会談は決裂し、再び倭軍は侵入してきた。これに対して、朝鮮軍と明軍は倭軍が北上するのを稷山で防ぎ、南方へ撃退した。このとき李舜臣は倭軍を鳴梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利を収めた。陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走しはじめた。朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり、最後の一撃を加えた。

倭乱の影響

倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族が持っていた潜在的力量が優れていたためである。つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が国防能力に作用して、倭軍を撃退させることができる力になった。

「壬辰倭乱」 = 「文禄・慶長の役」のことでしょう。
「わが民族が持っていた潜在的力量が優れていた…」とのくだりはすごいですね。ここには、秀吉の死去についての記述はありません。


VI 近世社会の胎動
2. 制度の改編と政治の変化
   (4) 対外関係の変化
清との関係

胡乱以後、朝鮮の清に対する敵愾心は長い間残っていた。清から受けた恥辱を晴らそうとして北伐政策が推進されたこともあった。しかし表面的には使臣がしばしば往来し外交的関係は継続した。
清は17世紀末から18世紀に至る時期に国力が大きく伸張し、文物が栄えた。朝鮮の使臣一行は清を訪問した後に、紀行文や報告書をとおしてこのような事情を伝え、さまざまな新しい文物を紹介した。

日本との関係

壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の関係は断絶していた。したがって、日本は経済的困窮に陥った。ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも、建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年 己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。
また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。

… その後、政府では鬱陵島開拓のために住民の移住を奨励し、鬱陵島を郡に昇格させ、独島まで管轄させた。

「日本は経済的困窮に陥った」 ?  確かに徳川幕府の最初の頃は、幕府体制確立に奮闘していたと日本の史料も書いてはいるが、朝鮮との交易で助けられたとはどう考えてもおかしい気がします。

明治 〜 第2次大戦までの内容のページへ