韓国の歴史教科書 KOREAN TEXTBOOK OF HISTORY
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VII 近代社会の展開
1. 近代社会への進展
   (2) 国際関係の拡大
江華島条約と開港

… 一方、明治維新以後、近代国家の体制を整え資本主義化を急ぐと共に海外進出を試みていた日本は、雲楊号事件を起こし朝鮮の門戸開放を強要してきた。そうして朝鮮はついに日本と江華島条約を結び門戸を開放するようになった(1876年)。
江華島条約はわが国が外国と結んだ最初の近代的条約であったが、これは不平等条約であった。江華島条約では朝鮮は自主国として日本と平等な権利を持つと規定していたが、それは朝鮮に対する清の宗主権を否認することによって、日本の朝鮮侵略を容易にしようとするものであった。 … 日本人の通商活動許可と朝鮮沿岸の自由な測量を規定していた。これは単純な通商交易の経済的目的を超えて政治的、軍事的拠点を作ろうとする日本の侵略意図をあらわにしたものだった。
… 治外法権条項を設定することによって、…

このように、日本は過去に日本が開港するとき、アメリカ、イギリスなどと結んだ不平等条約をそのままわが国に強要したのだった。

朝鮮に対する「黒船」は日本だった…

2. 近代意識の成長と民族運動の展開
   (1) 近代化の推進
開化政策の推進

… 開港後、朝鮮政府は第1次修信使金綺秀と第2次修信使金弘集を日本へ派遣することによって、その発展像と世界情勢の変化を知り、開化の必要性をいっそう感じるようになった。 …

壬牛軍乱の勃発

… 閔氏政権が新式軍隊である別技軍を優待して旧式軍隊を差別待遇したことに対する不満から爆発した(1882年)。 旧式軍人は大院君に援助を求め、政府高官の家を襲撃して破壊する一方、日本人教官を殺し日本公使館を襲撃した。 … これによって朝鮮を巡る清日両国間の対立を招来した。
… 清は以後、朝鮮の内政に積極的に干渉した。… 朝鮮の内政と外交問題に深く関与した。 … 閔氏一派は政権を維持するために、親清政策に傾いていった。

 

2. 近代意識の成長と民族運動の展開
   (3) 近代的改革の推進
甲牛改革と乙未改革

朝鮮は甲申政変の失敗で近代的な改革を主体的に実施する機会を失っていたが、開港以来累積したさまざまな矛盾を解決するためには大々的な改革が必要だった。

一方、東学農民運動を契機に清日両国軍が朝鮮に入ってきたが、… 外国軍隊の朝鮮駐屯に対する名分はなくなっていた。

このような状況で、日本は朝鮮での内乱を予防するために朝鮮の内政改革が必要であると主張した。しかし、その内面的な意とは、日本軍の朝鮮駐屯の名分を見つけ、進んで清との戦争の口実を作り、清の勢力を朝鮮から追い出した後、朝鮮に対する内政干渉をとおして経済的利権を奪取すると共に、侵略の基盤を固めることであった。しただって、日本は朝鮮に対して内政改革を要請したが、朝鮮は日本軍が先に撤収することを要求した。 … 日本は軍隊を導入して景福宮を占領した。このような日本に脅威のなかで閔氏政権が崩壊し、大院君を摂政とする第1次金弘集内閣が成立した。 … これが第1次改革で、いわゆる甲牛改革である(1894年)。

当時、日本は利権侵奪に力を注ぎ、改革内容に対しては傍観的な姿勢を取っていたので、改革は事実上軍国機務処の主導のもとで推進された。ところが、日本は清日戦争で優勢になると、朝鮮に対して積極的な干渉政策を取った。

第2次改革は、軍国機務処が廃止され金弘集・朴泳孝連立内閣が成立することによって推進された。高宗は文武百官を従えて宗廟に出かけ独立宣言文を捧げ、洪範14条を領布した。

朴泳孝が失脚した後、穏健改革派と親露派の連立内閣である第3次金弘集内閣が成立した。このとき、明成皇后は親露派と連結して日本の侵略勢力を排除しようとし、このために日本侵略者らは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こした(1895年)。このようななかで第3次改革が推進され、断髪令が出されると、… ついに明成皇后の弑殺に鬱憤を押さえきれなくなった儒生層と農民が断髪令を契機にして各地で義兵を起こし、このような渦中で親露派は国王をロシア公使館へ隠した。この俄館播遷によって改革運動は中断した。

(閔妃)明成皇后弑殺の記念碑は景福宮にあるそうです。

2. 近代意識の成長と民族運動の展開
   (4) 独立協会活動と大韓帝国
大韓帝国

俄館播遷1年目である1897年に高宗は内外の世論に助けられてロシア公使館から慶運宮に還宮し、国号を大韓帝国、元号を光武と変えた後、王を皇帝と称し自主国家であることを内外に宣布した。

光武政権は経済、教育、施設面で国力増強をはかったが、執権層の保守的性向と列強の干渉のために大きな成果をあげられなかった。

間島と独島

統覧府が設置された後にも日帝は間島に統覧府の派出所をおきこれを管轄した。しかし、日帝は清と間島協約を締結し(1909年)、満州の安奉線鉄道敷設権を得た代価として間島を清の領土と認定した。日帝がこのようにわが国の外交権を掌握して自分勝手に協約を締結したことは乙巳条約に根拠をおいているのだが、乙巳条約が高宗皇帝によって無効であると宣言された以上、この条約を根拠に結んだ間島協約も無効である。
これだけではなく、日帝は露日戦争中に、独島を自分の領土に編入する不法行為を犯したりした。

「独島」 = 「島根県の竹島」の事だと思います

2. 近代意識の成長と民族運動の展開
   (5) 抗日義兵戦争の展開
抗日義兵戦争の開始

清日戦争以後、韓半島の支配をめぐって鋭い対立を見せた日本とロシアはついに露日戦争を起こした。これと前後して日帝の侵略が本格化し大韓帝国は大きな試練を受けた。これに対していろいろな方面で民族的抵抗が起こった。日帝の侵略に対する最も積極的な民族的抵抗は義兵戦争であった。

義兵戦争の展開

… 義兵として活躍していた安重根は満州ハルピン駅で韓国侵略の元凶である伊藤博文を処断した(1909年)。
このように活発に展開された義兵戦争は、その後日本軍の残忍な、いわゆる南韓大討伐作戦を契機に萎縮した。

 


VIII 民族の独立運動
1. 民族運動の動向
   (2) 韓国の民族運動
民族運動の特殊性

日帝は世界史でその類例を見出せないほど徹底した悪辣な方法でわが民族を抑圧、収奪した。これによってわが民族は生存権まで脅威にさらされたが、これに屈せず独立を勝ち取るために挙族的に抗日民族運動を展開した。

しかし、20世紀はじめの国際情勢はわれわれに有利でなかった。すなわち、民族運動はアメリカ、イギリスなどの列強がわれわれの独立の努力を無視する汎世界的帝国主義体制化で孤立したまま推進された。よって、わが民族の独立運動は他のどの民族の独立運動よりも難しく困難なものだった。

抗日運動の展開

1910年主権を奪取された後、義兵を中心にわが民族の抗日武装勢力は満州と沿海州に移動し、独立運動基地建設と独立戦争準備に力を注いだ。
3・1運動以後、中国上海に大韓民国臨時政府が樹立され、われわれの民族運動を組織化し体系化することで抗日独立運動は本格化した。 … 満州と沿海州に根拠地を置いていた抗日武装部隊は日帝を間半島から追放するために本格的な独立戦争が繰り広げられた。 … このような抗日独立運動は1945年まで展開され、その結果、日帝から光復を勝ち取ることができた。

「世界史でその類例を見出せないほど」  … 事実を述べると言うより、著者の心境を述べている感じです。第1章の「叙述は歴史の真実をゆがめる」との関係が完全に崩れたと見ました。

2. 民族の試練
   (1) 国権の被奪と民族の受難
国権の被奪

清日戦争以後、日本は満州と韓半島を独占的に支配しようとし、ロシアと鋭い対立を見せたが、ついに露日戦争を起こした(1904年)。
露日戦争が起こると、大韓帝国は両国の戦争に巻き込まれないように局外中立を宣言した。しかし、日帝は戦争挑発と同時に韓国侵略の足場を固めるために大規模の兵力を韓国に投入し、ソウルを始めとして全国の軍事的要地を占領した。また、韓国政府を威嚇して日本軍の戦略上必要な地域を勝手に使用し、日本の同意なしに第三国と条約を締結できないという内容の韓日議定書を強要した。

その後、専制が日本に有利に展開すると、日帝は韓国植民地化法案を確定し、引き続き第一次韓日協約の締結を共用し、外交と財政分野に日本が推薦する外国人顧問を置くようにした。

日帝は露日戦争に勝利した後、より露骨に植民地化政策を強行した。すなわち、日帝は露日戦争を前後してアメリカ、イギリス、ロシアなど列強から韓国の独占的支配権を認定された後、韓国を保護国にしようとする、いわゆる乙巳条約の締結を強要してきた(1905年)。

高宗皇帝と政府の大臣の強力な反対にもかかわらず、日帝は軍事的威嚇を加えて一方的に条約成立を公布し、大韓帝国の外交権を剥奪し、統監府を設置し内政にまで干渉した。これに対して高宗皇帝は、自分自身が条約締結を拒否し署名捺印しなかったことをあげて国内外に条約の無効を宣言し、ハーグに特使を派遣し条約の無効を再び明らかにした(1907年)。

統監府を設置して大韓帝国の内政権を掌握した日帝は、大規模な日本軍を韓半島に派遣してわが民俗の抵抗を無慈悲に弾圧し、ハーグ特使派遣を口実に高宗皇帝を強制的に退位させた。それだけでなく、皇帝の同意もなく韓日新協約(丁未7条約)を強制的に締結し、わが政府各部に日本人次官を置いた。さらに軍隊解散に反対して蜂起した大韓帝国軍の抵抗を武力で鎮圧し、大韓帝国を防衛力の無い国にしてしまった。

その後、日帝は燎原の火のように燃え盛るわが民族の主権守護運動を武力で鎮圧し、司法権、警察権を奪った後、ついに国権までも強奪した(1910年)。

「ハーグに特使を派遣し」 … は、(日本の史料では)日本の妨害によりたどり着かなかった。というより、当時韓国の外交権が日本にあったので、列強諸国が黙殺したのが本当のところだと思います。
「国権までも強奪した」 … 韓国政府が日本の武力威嚇に負けて、条約締結してしまったのだと思いますが。

朝鮮総督府

国権強奪以後、日帝は殖民統治の中枢機関として朝鮮総督府を設置し、韓民族に対する政治的弾圧と経済的搾取をほしいままに行った。そうして日本軍現役大将が朝鮮総督に任命され、植民統治の全権を掌握した。朝鮮総督は日本の内閣の統制を受けずに日本国王に直属し、立法、行政、司法および軍隊統帥権まで掌握した絶対権力を行使した。このように強大な権限が総督に付与されたのは、わが民族の独立運動を朝鮮総督が意のごとく徹底的に弾圧することにその目的があった。 …

憲兵警察統治

国権が強奪され、韓半島には日本軍2個師団と2万余人の憲兵警察および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が実施された。
日帝の憲兵警察による武断植民統治は世界にその類例の無い者であった。 … わが民族は武力によって生存までも脅威にさらされた。
憲兵警察の主要任務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を捜索し処断することにあった。彼らには即決処分権がありわが民族に対し思いのままに笞刑を行った。 … わが民族はこのような日帝の憲兵警察統治によって言論、集会、出版、結社の自由を剥奪され、民族指導者は逮捕、投獄、虐殺された。 …

民族抹殺統治

… わが民族は日帝の内鮮一体、日鮮同租論、皇国臣民化のような荒唐無稽なスローガンのもとで、わが国の言葉と歴史を学ぶことができなかった。また、広告臣民の誓詞暗誦、宮城遥拝、神社参拝はもちろん、はなはだしくわれわれの姓名までも日本式に変えるように強制した。日帝はこれを拒否する人に対しては、投獄、殺傷までも躊躇せず、このような政策に従わない宗教系統の学校は閉鎖された。
また、わが民族は戦争に必要な食料と各種物資を収奪され、わが国の青年は志願兵と言う名目で、また徴兵制と徴用令によって、日本、中国、サハリン、東南アジアなどに強制動員され、命を失い、女性まで挺身隊という名で強引に連行され日本軍の慰安婦として犠牲になった。
このような日帝の植民地政策は韓国の自主的近代化と発展に莫大な支障をきたした。あらゆる政策が日帝の植民統治のための手段として計画され執行され、施設の設備投資もやはり同じ目的で行われたために、わが民族には何の役にも立たなかった。

この辺りが、日本の教科書から「わざと」抜けさせているとクレームがついている部分。しかし、多くの日本人はこれらの事実(?)を知ってはいると思いますが…。

 3. 独立運動の展開
   (1) 3・1運動
   (3) 学生の抗日運動
3・1独立宣言

挙族的な万歳示威運動を計画しながら、互いに連絡を取り合っていた宗教界の代表が先頭に立って、ついに1919年3・1運動を起こした。孫乗煕、李昇薫、韓龍雲など民族代表33人の名前で独立宣言書を発表し、独立を国内外に宣布した。… ほぼ同時期に地方でも万歳示威運動が相次いで起こった。 …
これに大きく狼狽したい日帝は、憲兵警察はもちろん、陸海軍まで緊急出動させた。平和的な示威によって正当な要求をしたわが民族は、無差別の銃撃によって殺傷され、家屋と教会、学校などの建物が焼き払われたり、破壊されるなど激しい受難にあった。

6・10万歳運動

1920年代に入って、民族主義系と社会主義系が対立し、独立運動はその進路を模索していた。このような時期に6.10万歳運動が起きた(1920年)。
大韓帝国の最後の皇帝である純宗の大葬の日を期して起きた6・10万歳運動は、3・10運動ですでに中枢的役割を果たしていた学生を中心に、わが民族が再び展開した独立運動であった。

 

3. 独立運動の展開
   (4) 抗日独立戦争
鳳梧洞・青山里の戦闘

大韓独立軍は崔振東の軍務都督府軍、安武の国民独立軍と連合して、鳳梧洞を奇襲してきた日本軍1個大隊兵力を方位、攻撃して大勝利を収めた。これが鳳梧洞戦闘であった(1920年)。
日本軍は独立軍に思いがけない惨敗を喫したので、韓半島に駐屯していた部隊と関東地方に駐屯中だった部隊およびシベリアに出兵中だった部隊を動員して3方面から独立軍を方位、攻撃してきた。
ために北路軍政署軍、大韓独立軍、国民会独立軍などの独立軍の連合部隊は日本軍大部隊を迎え6日間、十数回の戦闘で日本軍を大破する輝かしい戦火をあげた。これが青山里大捷であった(1920年)。

対日宣戦布告と韓国光復軍の活躍

韓国光復軍は中国と東南アジア一帯で連合軍とともに対日戦に参加するとともに、もう一方では祖国の光復をわれわれの手で勝ち取るために、直接国内に進入し日本軍との全面戦を展開することを計画した。 …
しかし、1945年8月15日、日本の無条件降伏によって、韓国光復軍はその年9月に実行しようと準備中だった国内進入計画を実現できずに光復を迎えたのである。

 

4. 社会・経済的民族運動
   (3) 国内外移住同胞の活動と試練
満州移住同胞

沿海州移住同胞

… 1937年には沿海州の韓人がソ連当局によって中央アジアに強制移住させられ、その過程で数多くの韓人が犠牲になり、財産をなくしてしまった。

日本移住同胞

19世紀末日本に渡っていった韓人は学問を学ぶための留学生が主流であった。しかし、日帝がわが国の主権を強奪し強制的収奪を強化すると、生活基盤を失った農民が産業労働者として日本に渡ったため、その数が増加した。彼らは日帝の資本家に搾取されながら、劣悪な労働環境で苦労しなければならず、日本人の民族差別によっていろいろな屈辱を受けなければならなかった。
1923年の日本の関東地方で発生した地震で人命と財産上に大きな被害を受け、日本内の民心が荒廃した。このとき、日本当局は「朝鮮人が暴動を起こし日本人を殺している」という流言飛語を広め、社会不安の原因を韓国人のせいに転じた。これによって在日同胞6000余人が日本人に虐殺される大惨事が発生した。

アメリカ移住同胞

「中央アジアに強制移住させられ」 … シベリア鉄道で旅したときに、ウラジオストック 〜 イルクーツク辺りまでの駅で、キムチや韓国風の食べ物を売るおばさんを多く見かけた。彼らも韓国系のロシア人なのだろう。


IX 現代社会の発展
1. 現代社会の成立
   (2). 韓国の現代社会
8・15光復

ついに、1945年8月15日、わが民族は日帝の支配から開放され光復を迎えた。わが民族の光復はアメリカ、イギリス、中国、ソ連などの連合国の勝利による結果でもあるが、わが民族が国内外で粘り強く展開してきた独立闘争の結実であった。

信託統治問題

38度線を境界に韓半島が分断され、南と北にアメリカ軍とソ連軍による軍政が実施されるなか、アメリカ、イギリス、ソ連の3国外相はモスクワで会議を開き、韓半島問題について協議した。この会議では、… 韓国を最大5年間、米英中ソ4カ国の信託統治下に置くことを決定した。
信託統治は、強大国が独立の能力の無い国を一定期間統治することで、実際にはわが民族にとっては植民地支配と大きな差異の無いものであった。 …

 

2. 大韓民国の樹立
   (2) 6・25戦争
この頃、韓半島に進駐していたアメリカ軍が撤収し、韓半島をアメリカの極東防衛線から除外するという発表もあった。北韓の共産主義者は、このような情勢を利用して戦争を準備した。金日成はひそかにソ連を訪れ、南侵のためにソ連と中国の支援を約束させ、ついに1950年6月25日の未明、38度線全域にわたって武力で南侵を敢行した。不意に奇襲を受けた大韓民国軍は自由守護の決意を固めながら勇敢に戦った。しかし兵力と装備が不足し、ソウルが陥落し、韓国軍は洛東江戦線まで後退した。
… アメリカ、イギリス、フランスなど16ヶ国の軍隊で組織された国連軍は1950年8月から反撃を開始し、

朝鮮戦争の記述。この戦争の特需により、日本が経済成長期に入る足がかりを得たともいえます。
この戦争の影響は現在においても、韓国と北朝鮮の間の「離散家族」問題として残っています。
願わくば、平和共存してもらいたいところですが…