アドリア海沿岸と中欧の旅 : ドゥブロヴニク
※ 未編集の旅行記です
September 30, 2005 (Friday)
Split - Croatia (スプリト - クロアチア)
夜中は雷雨だったが、朝にはやんでいた。空には少し青空ものぞいている。9時少し前、大家さんのポストに鍵を返し、駅前のバスターミナルに向かう。切符は昨日の夕方購入しておいたが、ドゥブロヴニク行きのバスには出発時点で私以外に数名の乗客しか居なかった。
Split(09:00頃発)→ Dubrovnik(13:45頃着)Bus 運賃 122 クーナ(2,245 円)
バスは小さな町のバス停にも停車し、乗客が少しずつ増えてくる。南にゆくほど雲は厚くなり、雨が降り出しそうになってくる。クロアチアの最南端、プロチェの町を出ると、ボスニア・ヘルツェゴビナ国境に近いメトコビッチに立ち寄って、再び海沿いに。そして国境を越えてボスニアのネウムの町を通り過ぎる。クロアチアのバスなので、ボスニア国内は停車しないようだ。車窓から見るボスニアの町は、周囲のクロアチアの町とあまり違わないように見える。ただ、ガソリンスタンドに掲示された値段が、ボスニアの通貨単位だったのが違うくらいだ。
アドリア海沿岸は細長くクロアチア領が続いているが、ネウムのある場所の約7kmの幅だけ途切れている。逆に言えば、内陸国になりかねなかったボスニア・ヘルツェゴビナは、唯一外海に接する領土を持っていることになる。なぜココがボスニア領になったのか。クロアチア独立戦争で、ボスニア側が多大な犠牲を払って勝ち取ったのか。そうではなくて、ヴェネツィア共和国と都市国家ドゥブロヴニクの間に、オスマン帝国が挟まって緩衝地帯となっていた過去の国境が、ユーゴスラビア解体時に再現されたということだ。
15分程度でボスニア領を通過し、再びクロアチアの飛び地に再入国する。雨が降り出し、そのうち土砂降りになる。13時すぎ、巨大な斜張橋Most dr. Franja Tuđmanaを渡ると、すぐにドゥブロヴニクのバスターミナルに到着する。
Dubrovnik - Croatia (ドゥブロヴニク - クロアチア)
バスを降りると、民宿(プライベートルーム)の客引きが10人ほど、私の周りに集まってくる。バスから降りたバックパッカーは私だけだからだ。一番最初にやって来た年配のおばさんと交渉する。付いて行ってみると、バスターミナルのすぐ向かい側の家だ。私が割り当てられたのは大きな住宅の2階の1部屋で、リビングルームやシャワー、キッチン、洗面は他の部屋に泊まっている旅行者と共有だ。
外はまだ吹き降りの雨だ。目の前にある巨大なバスターミナルに行き、明後日に乗る予定のモスタル行きのバスを調べる。バスターミナルの横は、巨大なスーパーマーケット。水や食料を買い出して、一旦民宿に戻り雨のやむのを待つ。
18時前、雨がやんだ。旧市街目指して歩く。長距離バスターミナルは、旧市街の北西3kmほどのところにある客船埠頭の横だ。道は港の岩壁沿いに1km続き、そこから内陸の坂道になる。その坂道を登り始める所に、市バスターミナルがある。ロンリー・プラネットに書かれている位置と1kmほど違うようだ。歩き方の地図もコピーして持ってきているが、それも同じ間違いを犯している。ロンプラがこけたら、それをコピペしている歩き方もコケる。
緩やかな坂道を登り切るとユースホステルがあり、さらに道は崖沿いの景色の良い所をずっと南東へ延びている。だんだん辺りが暗くなってきたので、この辺りで引き返すことにする。旧市街、どれだけ遠いのだろうか…
市バスターミナルの向かいにあるカフェに入り、巨大なピザを食べる。ピザ1枚とミネラル水で31クーナ(570円)。民宿に戻る。韓国人カップルがリビングルームでくつろいでいる。家主のおばさんがやって来て、ヒーターと給湯器のスイッチを入れ忘れていたので、今入れたとのこと。夜は冷え込むのだろうか…
民宿(プライベートルーム)160クーナ(2,944円)/1泊
October 1, 2005 (Saturday)
6時50分 起床。窓から外を見ると曇っている。気象データWebでは、この日の最高気温22℃, 最低気温13℃だった。民宿の寝室で、昨日スーパーで買ったパンとリンゴを食べて朝食とする。
8時、観光に出かける前に民宿の向かいあるバスターミナルに行き、明日乗る予定のサラエヴォ行きバスの混雑度合いを見る。超満員だ…。切符売り場で席の予約があるのか聞くと、そういうのはなくて、当日朝にしか切符を売らないそうだ。
バスターミナルの売店で市バスの乗車券を購入し、旧市街ゆきのバスに乗車。30分待っても来ないと思ったら、何台も団子状態で来るというダイヤ管理の甘さ。
Luka Gruž/ferry and bus main terminal(08:30頃発)→ Pile/Old town(08:40頃着)Bus, Line 1 運賃 8 クーナ(147 円)
昨日の夕方、かなりの距離を歩いて途中でギブアップした旧市街までの道(3kmほどある)、バスは10分ちょっとで到着。終点のピレ門前バス停で下車。
ドゥブロヴニク(中世はラグーサと呼ばれた)は、人口4万人のクロアチア最南端の都市。中世初期の7世紀頃に作られた集落が起源で、東ローマ帝国の保護下にあった。その後、14世紀から19世紀初頭までラグーサ共和国と称する都市国家で、オスマン帝国の属国だった。
中世に、地中海の海上交易をめぐる競合勢力だったヴェネツィア、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァの「四大海洋都市」に勝利したのはヴェネツィア共和国だった。しかし、オスマン帝国配下のラグーサがアドリア海の出口に鎮座することで、かなり牽制されていたと思われる。
その後、19世紀初めナポレオン戦争に敗れフランス配下のイタリア王国に併合され、ナポレオンが倒された後にはオーストリア帝国の一部とされてしまう。
市バスが到着した旧市街の西門であるピレ門。15世紀初めに造られたものだが、その左右に延びている旧市街の城壁も同じ時期、14世紀から15世紀に造られたものだ。城壁の主目的は、ヴェネツィア共和国の攻撃に備えるためだったそうだ。空堀に架かる橋を渡り、巨大な二重門を通り抜けると旧市街だ。
旧市街は古代ローマ風に碁盤の目状の街路で、東西の大通りストラダン通り(プラカ通り)がピレ門から街の中枢であるスポンザ宮殿や総督宮殿の前まで続いている。朝早い時間なのに、すでに団体観光客が幾組か歩いているのが見える。
250mほどのストラダン大通りを東端までやって来た。街の中心広場でルジャ広場というらしい。広場の真ん中にはオルランドの柱と呼ばれる、中世にサラセンの襲撃から街を救った英雄の像を祀る塔だ。イタリア半島の多くの街はサラセンの襲撃を避けるために、丘の上や内陸に移動したが、海岸沿いに踏みとどまったラグーサはサラセンの格好の攻撃対象だったのだろう。
広場の北にはルネサンス様式のスポンザ宮殿。税関や造幣局、財務官邸だった建物だ。そして、広場の南には総督宮殿があり、こちらもルネサンス様式の建物。評議会や元老院がココで開催されたほか、ヴェネツィアと同じく輪番制の総督が詰める官邸でもあった。
その2つの建物に挟まれている、ルジャ広場正面の建物は現在の市役所。時計塔のある建物には旧港の方に向かう通路があり、さらに途中で街の東門であるプロチェ門への路地が分岐している。この門は、すぐ北側のレヴェリン要塞と一体化している。
もと来た道を戻り、旧港横の入場口から城壁の上に登る。入場券は30クーナ(552円)。とりあえず、総延長1.9kmの城壁を1周回ってみる。入場口は聖イヴァン要塞と城壁が一体となっている。内部は何と水族館だそうだ。アドリア海に面した断崖の上に城壁が続いている。所々に小さな角堡があり、城壁上の通路が広くなり露天のカフェが出店している。断崖の下を見下ろすと、崖に少しだけ張り出した土地があり、そこにもカフェ。なんと、そこからアドリア海に飛び込んで海水浴している人まで居る。
海側を半周周ると、旧市街の西門であるピレ門のところまで来る。岩だらけの入り江の向こう岸、断崖の上にはロヴリイエナツ要塞が見える。ピレ門からは、緩やかな斜面に造られた旧市街の陸側となる。こちら側の城壁上からは、旧市街が一望できる。
日本人観光客が、アニメ『魔女の宅急便』の歌を唄いながら歩いている。その舞台はココじゃなくて、ストックホルムやリスボンなどだろう。アドリア海を舞台にしたのは、『紅の豚』なので、加藤登紀子風に歌うほうが雰囲気に浸れそうだ。
旧市街の城壁は、四隅に巨大な砦、その間の直線部分には幾つもの海側の角堡や陸側の半円堡で守りを固め、城門は通路を複雑に折り曲げた巨大な二重門。これらの守りは中世の弓矢や投石器、攻城塔や破城槌などの攻城兵器に対抗するためのもので、所詮、近世の大砲の直射攻撃には無力だ。だからナポレオンのフランス軍に対抗できなかった。最近の例では、1991年のクロアチア独立戦争時にユーゴスラビア軍に包囲され、丘の上から砲撃されて旧市街はほとんど瓦礫の山になったといわれる。いま、観光で見ている旧市街の建物は、独立戦争後に丁寧に復元された建物群だ。
いったん民宿に戻ることにし、昨日の夕食を食べたしバスターミナル前のカフェでポークグリル・サンドイッチを食べる(20クーナ, 368円)。昼間なら、旧市街から民宿までダラダラと下り坂の3km歩くのは楽勝だ。
12時頃、晴れてきたので再び旧市街に向かう。往路は登坂なので、バスに乗る。
Luka Gruž/ferry and bus main terminal(13:00頃発)→ Pile/Old town(13:15頃着)Bus, Line 1 運賃 8 クーナ(147 円)
バスを降り、ピレ門から旧市街に入る。午前中と違い、すごい数の観光客が歩いている。話している言葉から、ドイツやイタリア、フランスの人たちが多いようだ。午前中に買って入場済みの城壁に登る切符は、午後からも再入場可能だった。曇っている時のまろやかなオレンジ色の旧市街と、青空のもと陰影と色彩がくっきりとする旧市街、どちらも美しいものだ。クロアチア独立戦争で瓦礫になったのち、よくここまで復旧させたものだと思う。
17時過ぎ、歩いて民宿に戻る。港のそばのネットカフェに入ると、Windowsパソコンで日本語が入力できる。ただ、そこからメールを送ると文字化けして読めないらしい。英語版のWindows98に無理やり日本語IMEをインストールしても、2バイト文字コードをちゃんと送受信するところまではできていなかったようだ。
レストランに入り、ポークステーキとサラダで夕食。66クーナ(1,214円)。民宿に戻り、シャワーを浴びようとしたら水だ。昨日は大家のおばさんが給湯器のスイッチを入れ忘れていて、後で入れに来ていた。今日は完全に忘れ去られているのだろうか…。
泊まっている部屋の向かい側、テラスに造られたサンルームのような部屋に泊まっている西欧人の兄ちゃんの咳がひどくなっている。ガラス張りで保温性がないから、夜は寒いのではないだろうか。明日、私がチェックアウトした後に内側の部屋が空くので、こっちに移ったらどうかと提案。兄ちゃんもそうしたいと言っていた。
民宿(プライベートルーム)160クーナ(2,944円)/1泊