アドリア海沿岸と中欧の旅 : モスタル, サラエヴォ
※ 未編集の旅行記です
October 2, 2005 (Sunday)
Dubrovnik - Croatia (ドゥブロヴニク - クロアチア)
6時頃起床。昨日スーパーで買っておいたパンを食べて朝食とする。宿泊している民宿の大家のおばさんに、モスタルでの民宿予約もお願いしていたが、連絡取れたらしい。私はモスタルのバスターミナルで降りて待ってればいいとのこと。
7時半少し前にチェックアウトして、目の前にあるバスターミナルの切符売り場へ。30分前売り出しと昨日聞いておいたが、すでに多くの乗客が切符を持ってバスが泊まる停留所に並んでいる。7時半過ぎ、サラエヴォ行きのバスがやって来た。
Dubrovnik(08:00発)→ Mostar(11:30頃着)Bus 運賃 80 クーナ(1,472 円)
バスは満員の乗客を乗せて出発。最前列の席には、制服を着た警察官が乗車している。警備しないと危ない地域を走る路線なのだろうか…。
1時間ほど掛かってクロアチアの飛び地を出て、ボスニア・ヘルツェゴビナの海岸沿いの街、ネウムのバス停に到着。ここで年配のおばさん3名が乗車し、バスは再びクロアチアとの国境を越えてクロアチア領へ。ここまで、2日前にスプリトからドゥブロヴニクにやって来た時のバスのルートをほぼ逆向きに走っている。そして、少し内陸に入ったクロアチア「本土」最南端の街メトコビッチのバス停に到着。添乗していた警察官は、ココで下車した。警察官は、出入国検査を受けずに途中下車する客を阻止するために同乗していたようだ。
10時、メトコビッチを出発してすぐ、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境検査場に停車する。車掌が市民カードやパスポートを集めて、まとめて検査場の事務所に運んでいる。20分ほどのち、国境検査官がパスポートを返しに来る。車掌がひとりひとりの名前を読み上げて身分証やパスポートを返却して回るが、当地の名前は『◯◯ビッチ』という感じのものばかりで、私のパスポートの名前は読みあげられずに『ジャッポーネ』と…。
国境検査場を出発すると、すぐにドライブインに停車し休憩。運転手がココで昼食を食べるようだ。20分ほどの休憩の後、ネレトヴァ川沿いの道をしばらく走って、次に停車したのはチャプリナの街。古い建物には弾痕が残り、中には砲撃で崩れ落ちたような建物もある。ここから先、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で破壊された建物が目立つようになる。また、地域ごとに『自らのアイデンティティを示すために祖国の国旗を掲げる』ようになっている。ある地域は道路沿いにクロアチア国旗を掲げ、またある地域はセルビア国旗を掲げるというように…
Mostar - Bosnia and Herzegovina (モスタル - ボスニア・ヘルツェゴビナ)
11時30分、モスタルのバスターミナルに到着。最近出来たと思われる、大きなバスターミナルだ。ドゥブロヴニクで泊まった民宿の大屋さんの妹(Bebaさん)が、この街で民宿を営んでいるので、予約を入れてもらった。その家主の娘が大学生くらいの孫娘と一緒に、バスターミナルまで車で迎えに来てくれていた。
グレーの小型車に乗って、民宿に向かう。ネレトヴァ川を渡り、クロアチア人の住む地区へ。区画整理され緑豊かな大通り沿いに、低層のアパートや住宅がゆったりと建っている閑静な住宅街だ。車はKneza Mihajla Viševića Humskog通りのとある住宅前に停車。アパートの1階にある幾つか部屋が空いているので、ドミトリーなら10ユーロ、個室なら15ユーロとのこと。この値段差なら、個室のほうがお得感がある。
部屋に荷物を置き、早速観光に出かける。モスタルは、内陸とアドリア海沿岸の交易路の中継地として、オスマン帝国時代の15世紀頃より都市として栄えてきたそうだ。17世紀には人口1万人に達したとされる(現在は11万人)。歴史的に、ネレトヴァ川の東側にイスラム教徒が、西側にクロアチア系のキリスト教徒が居住している。
民宿のある通りを西へ行くと、大きなラウンドアバウトがある。その一角にはショッピングセンターがあり、そこにあったATMで現金をゲットする。ボスニアの通貨マルカは、交換レートがユーロに固定されていて、1マルカが0.51129ユーロだ。ということで、100マルカをキャッシングしたので、51.129ユーロ(6,954円)となる。ボスニアには1泊2日しか居ないので、これで十分だろう。
ショッピングセンター内は「ヨーロッパ風のカフェ」が多く、昼食には現地の料理が食べたかったので旧市街を目指すことにする。クロアチア人地区の閑静な住宅街の中を歩き、イスラム教地区との間の中立ラインの大通りに向けて歩いて行く。沿道の建物の損壊の割合がだんだん高まって行き、中立ラインの大通り沿いの建物は人が住めないほどの破壊度合いだ。コンクリートの建物なので、崩壊せずに弾痕だらけの壁が野ざらしになっている。
病院と思われる建物は、紛争後に修復され利用されているのだが、その正面にある噴水は『虐殺・パトロール』と大きく落書きされたまま放置されている。近年建てられたガラス張りのオフィスビルは、ガラスが全て銃撃で吹き飛ばされ、無残な姿を晒したまま放置されている。中層のアパートは、一部が住めるように改修されて窓やベランダ部分だけが綺麗になっている。しかし、共用部の壁面などは無数の弾痕が残るボロボロの壁のままだ。
とある廃墟のビルに入ってみる。20世紀初頭頃に建てられた、オーストリア風のオフィスビルか何かだ。窓は全て吹き飛ばされ、木造だったと思われる天井も消滅している。コンクリート製の外壁と、3階までの床だけが崩壊を免れ残っている。地雷を示すドクロマークに注意しながら、しっかりとしたコンクリート床の上だけを歩く。屋外からの銃撃は、室内の壁のいたる所に大きな弾痕を作っている。上階に登る階段は、迫撃砲か何かで吹き飛ばされ、途中で大きな穴が空いている。最前線で戦う兵士が、この建物の壁に隠れて銃撃していたのだろう。
中立ラインの大通りに戻ると、目の前を欧州連合部隊(EUFOR)のジープが猛スピードで走り抜けていく。ネレトヴァ川に架かるムサラ橋を渡り、イスラム教徒地区に入る。モスタルの観光地は、ほぼ全てがネレトヴァ川の東岸にあるイスラム教地区内にある。
川沿いのBraće Fejića通り沿いに歩く。多くの建物は、紛争によって破壊された廃墟だが、観光地となるような建物だけは修復されている。16世紀に建てられたカラジョス・ベイ・モスクは、紛争で破壊されたが2004年に修復されたという。だから、見かけはほぼ新築だ。川沿いにあるコスキ・メフメット・パシナ・モスクも礼拝堂やミナレットの外観はほぼ新築だが、中庭にあるウドゥの為の洗い場は歴史を感じさせる古い東屋が残っていたりする。総じて、背の低い建物は直撃弾を避けやすく、被害が出にくかったのだろう。
沿道の土産物屋やレストランが段々と密になってきて、通りはスタリ・モスト(古い橋)の袂まで来る。16世紀に造られた石橋は、残念ながらボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で破壊され、2004年に復元されたばかりの新しい石橋だ。この橋の付近には、沢山のヨーロッパ系の観光客が歩いている。橋の上からは、地元の若者が観光客からチップをもらい、川面に向かって高飛び込みをしている。深緑色をした水面まで24mほどあるらしいが、水深が深そうなので大丈夫なのだろう。
昼食を食べに観光客向けのレストランに入る。ツーリスト・メニュー(12マルカ, 834円)なるものを注文すると、地元の「トルコ料理」が出てきた。イスラム教徒地区は、街の雰囲気といい、まるでトルコに居るかの錯覚をおこす。トルコの家(Bišćevića ćošak)という、当地の伝統的住宅を展示した博物館もあり、街のあちこちにオスマン文化の雰囲気が色濃く残っている。
明日、サラエヴォに行くためのバスの時刻を調べるため、長距離バスターミナルに向かう。バスターミナル前の道を、日本の国旗が描かれた黄色い市バスが走っている。日章旗の下には「From the people of Japan」と書いてあって、このバスが国際援助で提供されたものだとわかる。こんな地味な書き方をするより、アニメのキャラクターを描いた『痛車』にしてしまったほうが分かりやすいのではないだろうか…。
キリスト教徒地区に戻り、街を散策。こちらには教会が沢山あるが、多くは紛争後に建て替えられた新築の建物だ。フランシスコ会修道院では結婚式の人々が教会の前に集まり、大きなクロアチアの国旗を掲げていた。
夕食はキリスト教徒地区のファミレスのような店に入り、鶏肉とマッシュルームのパスタ、サラダを食べる(12.5マルカ, 869円)。
民宿(プライベートルーム)15ユーロ(2,040円)/1泊
October 3, 2005 (Monday)
昨晩は、誰かが間違って私の泊まっている部屋のドアを開けようとする音で目が覚めた。6時頃、騒々しく誰かが民宿から出て行く音でも目が覚める。7時起床。昨日、パン屋で買ったパン3個(1.5マルカ, 104円)を食べ、民宿をチェックアウト。鍵を部屋に残しておくだけでOKのようだ。
バスターミナルに行くと、日本人の個人旅行者が歩いていた。声をかけてみると、これからドゥブロヴニクに行くところらしい。ガイドブックとか持ってないとのことなので、バスターミナルから旧市街への行き方を伝えた。
Mostar(09:00発)→ Sarajevo(11:40頃着)Bus 運賃 13.5 マルカ(770 円)
モスタル始発のサラエヴォ行きのバスは、9時に出発。車内はやはり満員だ。昨日は、太陽光が当たりまくる窓際の席が指定席だったので暑かったが、今日は曇っているので楽だ。モスタルを出発すると、ディナル・アルプス山脈の山間部の道を走る。ネレトヴァ川沿いの道を、標高100mくらいから400mくらいまで標高を上げると、源流のジャブラニカ・ダムのダム湖沿いの道となる。道沿いには「撮影禁止」の看板が所々に立っていて、軍事的に微妙な場所なのだろう。
標高1,500mほどの山々に囲まれた山間部、標高800mの峠のトンネルを越えると、サラエヴォに向かって下り坂になる。サラエヴォ郊外から、道は渋滞しはじめる。街外れより、中央にトラムの走る大通り(スナイパー通り)を7kmほど行くとサラエヴォ中央駅前に到着。バスターミナルもそこにある。
Sarajevo - Bosnia and Herzegovina (サラエヴォ - ボスニア・ヘルツェゴビナ)
サラエヴォは、古代ローマ時代の温泉アクアエ・スルプラエの集落を起源とする街で、オスマン帝国時代に大都市となるまで発展した。この時の街の呼称はヴルフ=ボスナ。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、イスラム教徒やクロアチア系キリスト教徒などが居住しているサラエヴォ市街地を、セルビア系キリスト教徒勢力が4年間に渡って包囲して攻撃することで(サラエヴォ包囲)、12,000人が死亡したとされる。
バスを降り、すぐ目の前にある中央駅に向かう。民宿の客引きがわらわらと集まってきて、バスから降りた唯一の外国人の私を取り囲んでくる。この街には泊まらないで、鉄道で今日の夜に出国すると説明しても、納得しない客引きのおばさんが1名。しかたなく、そのおばさんを引き連れたまま中央駅に入り、まず荷物預け所で荷物を預ける(9マルカ, 625円)。切符売り場にゆき、ブダペスト行き夜行列車の切符を購入。何故かこれはユーロ建てでしか売ってくれなかった。
駅を後にし、しつこくついてくるおばさんを引き連れたまま、旧市街を目指す。駅前通りを南東に500mほど歩くと、さきほどバスが通ってきたトラムの走る大通りだ。右手には黄色い建物のホリディインがある。このホテルは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に外国メディアの滞在していた場所だ。しかし、サラエヴォを取り囲む丘の上に潜んだセルビア側のスナイパーが、ホリディインや、すぐ目の前の大通り(別名『スナイパー通り』)を狙撃してくるので非常に危険な場所の一つだったそうだ。
ここで、例のおばさんが諦めてバスターミナルに戻っていく。これが有名な、日本人男性が大好きなヤスナという民宿のおばさんだったのかもしれない。スナイパー通りを東へ500m、ミリャツカ川に架かる橋に行きつく。橋を渡った南側には巨大なスポーツ施設スケンデリア。この辺りは、トラムや車が入り乱れ、その間を人がうろちょろするという交通カオス状態。
川沿いの道と、トラムの走る大通りのちょうど間にあるBranilaca Sarajeva通りをどんどん東に歩く。沿道に、ボスニア名物のブレク屋があったので、そこで昼食(3マルカ, 209円)。日本の餃子と同じ味付けの、形は円形のパイと言う妙な食べ物だが、これが美味しい。オスマン帝国だった場所にはだいたい存在する名物だ。
オーストリア帝国時代の面影のある低層のビルが並んだ通りを、スケンデリア前より1.3kmほど東にやって来た。ここから東がオスマン帝国風の旧市街「バシュチャルシヤ」だ。16世紀に、アラブのスークをモデルに造られたそうだ。南には、ミリャツカ川に架かるラテン橋。1914年、第一次世界大戦のキッカケとなった、オーストリア帝国の皇太子が暗殺された「サラエヴォ事件」が起こった場所だ。
バシュチャルシヤは、トルコ風の平屋の建物が軒を連ね、土産物屋やレストランがたくさん。16世紀に建てられたガジ・フスレヴ・ベイ・モスクと時計塔、18世紀に作られたオスマン帝国風の噴水セビリ、16世紀に建てられたハマムのような外観のブルサ・ベジスタンなどがある。
旧市街を抜けてさらに東へ。露天市場があり、廃墟となった国立図書館がある。
こんどは、トラムの走る大通りMula Mustafe Bašeskijeを中央駅の方に向かって歩く。しばらく行くと、サラエヴォ包囲で迫撃砲弾が打ち込まれ多くの死傷者を出した青物市場がある(「市場砲撃事件」)。この時にアスファルト舗装の道路に着弾した弾痕が、樹脂が流し込まれて残されている。
スケンデリア交差点付近から、北側の丘に向かって緩やかな坂道を登って行くと、およそ1kmでオリンピック・スタジアムがある。ここは1984年の冬季オリンピックで開会式に使われた競技場だ。スタジアム周囲には、無数の墓石が並んでいる。サラエヴォ包囲戦での犠牲者がココに埋葬されているそうだ。
今度は街の南側の丘に登る。国立博物館の廃墟付近のミリャツカ川を渡り、中層のアパート群の間を抜けて、緩やかな坂道を登っていく。戸建て風のアパート、1戸建住宅が並ぶ地区を過ぎると、いわゆるスルプスカ共和国との間の緩衝林となる。丘の稜線が、ボスニア・ヘルツェゴビナと、そこから独立したスルプスカの国境線だ。
国境は検問があるわけでも、兵士が巡回しているわけでもなく、単に道路上に看板が出ているだけ。容易に越えて、スルプスカ側に入国してしまう。国境の丘の南側は、のどかな田園地帯の中に点々と住宅が建っている。独立してはみたものの、経済的には全然ダメだったということなのだろう。ボスニア側の賑わいとの、あまりの落差が印象的だった。
再びボスニア側のサラエヴォに戻る。国立博物館の廃墟には、屋外展示なのか、単に戦後に放置されたのかわからないが、Mi-8ヘリコプターや自走砲の残骸が置かれている。もちろん、何の説明看板もないので展示品ではないのだろう。
夕飯は、旧市街のバシュチャルシヤでトルコ・レストランに入る。チキン・ローストを食べる(13マルカ, 903円)。この国は、観光客向けの物価は結構高いと思う。
列車に乗る時間まで、時間を潰すため、スナイパー通りのホリディインの向かい側にあるカフェに入る。紅茶が1マルカ(69円)。列車が駅に入線するぎりぎりまで時間を潰す。
19時過ぎ、駅へ。ブダペスト行き列車は、19時半頃駅に入線した。駅のロビーは薄暗く、プラットホームの照明はほとんど無く、列車の車両も全く照明がついていない。ほぼ、漆黒の闇の中を、手持ちの懐中電灯で照らしながら列車に向かう。車両には、ボロボロで文字が消えかけのサボが取り付けられていて、3両編成のうちの1両がブダペスト行き(424号車)だ。誰も乗車していない車両に乗り込み、適当なコンパートメントに座り出発を待つ。
ロッテルダム大学のMBAコースに留学するという日本人男性が、私が座っているコンパートメントにやって来る。こんなところで日本人に出会うとは、奇遇だ。
Sarajevo(20:20発)→ Budapest Deli pu(08:50着)Train, D 258/IC 809 運賃 39 ユーロ(5,304 円)
出発10分ほど前に、客車内の電灯やヒーターが稼働し始める。20時20分、定刻通り列車が出発する。コンパートメント内で旅行談義に盛り上がっていると、1時間半ほどで次の停車駅ゼニツァに停車。隣の線路に照明が完全に消された列車が停車している。その間を、車両点検する作業員の懐中電灯があちこち照らしてゆく。
23時半、ボスニア・ヘルツェゴビナとスルプスカ共和国の国境ドボイ駅に停車。ここでボスニア国鉄の電気機関車が切り離され、すぐ横の線路をもと来た方向に帰ってゆく。代わりに、スルプスカ共和国の電気機関車が連結され、さらにバニャ・ルカからベオグラードに向かう車両が連結される。3時間ほどコンパートメントで旅談義をした日本人が、ベオグラード行き車両に移っていく。
駅の強烈なサーチライトが国境を越える列車を照らす。窓の外は夜霧にライトが乱反射し、真っ白に見える。出入国検査でパスポートを調べられ、しばらくすると列車が出発する。ここから終点のブダペストまで、コンパートメントは私一人が独占だ。
1時半ごろ、サヴァ川を渡ってクロアチアのスラヴォンスキ・シャマツに停車。そとは深い霧だ。スルプスカの機関車が切り離され、クロアチアの機関車が連結される。さらに、どこかから来た車両が幾つか連結される。また出入国検査が行われる。
コンパートメントの暖房は温度制御が効かず、入れると暑すぎ、切ると極寒だ。融通がきかないなぁ。
クロアチアに入ると列車はスピードを上げて走りだす。徐行運転しか出来ないボスニアの線路が、ぜんぜん保守が追いついていないのがわかる。
4時頃、クロアチアとハンガリーの国境ベリ・マナスティル駅に停車。寝たと思えば、すぐ次の国境で出入国検査。ゆっくり寝させてもくれない。