JUNE 30 嘉峪関(甘粛省)
JIA YU GUAN - CHINA(嘉峪関、中華人民共和国)
真っ暗な嘉峪関(ジァ ユー グァン)の站に降り立つ。この站で降りた客は50人もいないだろう。站構内にはタクシーの客引きがちらほら来ている。駅舎から出る。
站前には、明かりの灯ったビルひとつ無い。真っ暗だ。まばらについた街灯に、10台程度のタクシーが照らし出されている。本当にそれだけだ。1時まで市内バスが走っているとガイドブックに書かれているが、そんなものどこにも停まっている気配が無い。近づいてきたタクシー運転手が、どこのホテルに行くんだと聞いてくる。ホテルを探したいので、300元以下の適当なホテルに連れて行ってくれと交渉する。
タクシーは站を出て、猛スピードで走り出す。しばらくすると、まばらに建物が見え始める。(おそらく、迎賓西路を通って、新華南路を北上したのだろう。) とある巨大ホテルの「車寄せ」に停車する。高いんじゃないだろうなと思う。タクシーの運転手が、とりあえず部屋があるか見てこいというので、無人のロビーに入ってゆき、フロントに行く。幸い部屋はあるようだ。ツインの部屋が380元/日が部屋の料金だという。とりあえず部屋を見せてもらう。新しい部屋で、かなり広い。値引きして欲しいと言うと、300元/日まで値下がりした。ここに泊まる事に決める。タクシーの運転手には、運賃20元払う。

長城第一墩 (右側の物見台で万里の長城が終わっている。
左の崖の下は北大河が流れている)
ChangChengDiYiDun (west end of great wall)

8時頃、起床。ホテルの前に出る。ホテルの名前は「長城賓館(チャン チェン ピン グァン)」という。建物の屋根に、中国式屋根のレプリカが乗っかっている変わったデザインだ。近くを見回すが、食堂や店らしきものは見えない。というか、街のはずれのようだ。向かい側の敷地は、人民解放軍。まあ、こんなところで食堂を期待するのも無理か…。
レンタルサイクルがあるので、嘉峪関城(ジァ ユー グァン チェン)と長城第一墩(チャン チェン ディ イー ドゥン)に自転車で行けるかどうか聞いてみる。(ガイドブックには、行けると書いてある。) ホテルの職員や、貸し自転車の店員や、タクシーの運転手が集まってきて、距離も遠いし、この暑さでは絶対無理ということだった。タクシーに乗る。両方の観光名所に行って、70元だそうだ。タクシーの中をチラッと見ると、メーターがある。「計程」で行って欲しいと言うと、それでも構わないそうだ。

タクシーは平屋ばかりの建物しかない大通り(玉泉路)をかなりの速度で北上する。ぱらぱらと自転車に乗った人民が走っている。進路を西に取り、鉄道の線路を渡ると幹線道路(312号線)に入る。10分ほどで嘉峪関城の近くを通る。さらにそこから暫く走って、わき道にそれる。おそらく、長城第一墩に行くためだけの道なのだろう。砂漠の中を暫く走ると、再び線路。貨物列車がはるか向うに停車している。ほとんど朽ち果てた万里長城の切れ目を横切って、山脈の見える方向へ長城に沿って道路が湾曲している。道路は断崖絶壁のところで途切れている。長城もちょうどそこで途切れている。

長城第一墩から見た祁連山脈
QiLian range from ChangChengDiYiDun

ここが、長城第一墩(チャン チェン ディ イー ドゥン)だ。はるか東から続いてきた万里長城(ワン リー チャン チェン)は、ここで切れている。長城の末端の横には、物見やぐら(墩)がほとんど崩れた状態で残っている。断崖絶壁の下は、かなり大きな川が蛇行して流れている。北大河(ベイ ダー ヘー)だ。水源は七一冰川(氷河)だそうだ。嘉峪関市の水もここから取っているのだろう。ホテルの水が驚くほど冷たいのは、このためだろう。北大河の向うは、暫く砂漠が続いた後、丘陵地帯(といっても、2000mを越す山なのだろうが…)になっている。その乾燥した丘陵地帯の向うに、雪を頂く祁連山脈(チー リャン シャン マイ)が見える。5000mクラスの山々だ。
第一墩から100m程度行ったところの長城の上に登ってみる。この辺りではほとんど砂に埋まっていて、簡単によじ登ることが出来る。長城は一直線に北東の方向に続いている。はるか向うには嘉峪関城の楼閣(ロウ ゲ)がちょんちょんと見えている。確かに自転車で来ることの出来る距離ではないだろう。

向うから外車(ヨーロッパの車)が走ってくる。中国人のおっさんが数人降りてくる。ビジネスと称して、観光にも来ているのだろう。大声で話し、うれしそうに記念写真を撮っている。タクシーに乗り、嘉峪関城へ向かう。
途中の砂漠で、自転車に乗った韓国人2人を見かける。全身日焼けで真っ赤状態だ。日陰のまったく出来ない砂漠では、さぞ大変だろう。

嘉峪関城  JiaYuGuan castle

嘉峪関城(ジァ ユー グァン チェン)は、城のかなり手前でタクシーを降りる必要がある。中国人観光客向けの、庭園もどきが手前に広大に広がっているからだ。こちらは入場料40元取られる。入場券売り場から15分ほど歩くと、入口に到着する。昔はここで入場券を売っていたのだろうか、入場券売り場の残骸がある。さらにそこから5分程度歩くと、城塞に到着する。14世紀の、明王朝時代に建てられた城塞だが、ほとんどが中華人民共和国時代に復元されたもののようだ。まあ、それでもシルクロードの香りを漂わせるいい場所ではある。城壁の上に登る。城壁の上には何個かの楼閣が建っているが、内部は土産物屋なので入る意味は無い。はるか向うには、先ほどまで居た長城第一墩が見え、その向うに祁連山脈。北東の方向を見ると、長城は山脈の方向に消えている。ガイドブックによれば、あちらの方向が明日訪れる予定の懸壁長城(シュエン ビー チャン チェン)のようだ。

嘉峪関城の西の門を抜けて外に出る。何も無い砂漠(ゴビ砂漠)だ。明の時代には、ここから向うは西域。今で言えば、嘉峪関城は国境の検問というところだろうか。砂漠から風が吹き付けてくる。老人が羊の群れを連れて歩いている。ほとんど草の生えていないところで、放牧が可能なのだろうか。
城壁内に戻る。城壁内には寺院がある。本堂には、ばっちり塗装を施された本尊が祭られている。壁面には仏教の教えが、絵画として描かれているようだ。仏教に詳しくない私は、一部の登場人物しか名前を知らない。

嘉峪関城を出て、タクシーに乗る。ホテルに戻るのでなく、市内中心部に行ってほしいと注文する。タクシーは新華北路(シン ホァ ベイ ルー)で私を下ろした。メーターによると、81元。しまった、言い値で行っておけば、70元だった。今回は私の負けである。

嘉峪関汽車站の酒泉行きバス
Bus for JiuQuan , at JiaYuGuan bus terminal

新華南路と河口東路の交差点辺りにある食堂で昼食。この店はたくさんの地元民が来ている。ビュッフェ形式の昼食を出している店だ。たったの5元である。食後、嘉峪関汽車站(バスターミナル)へ。あさっての敦煌行きの切符を買おうと思う。待合室に掲示された時刻表によると、1日に4便程度出ているようだ。朝一番の9時のバスに決めて窓口へ。切符を発券した後に、「保険」証を持っているか聞かれる。そんなもの持参していないので、「没有」と言うと、30元で保険に加入しないと切符は売れないといわれる。まあ、仕方が無いか。
敦煌(ドン ホァン)行きの切符を手に入れると、次に酒泉行きの切符(3元)も買う。酒泉行きのバス(冷房なしマイクロバス)は13時30分にバスターミナルを発車した。発車したはずだった…。バスターミナルの前の道で、いきなり客集めを始める。結局嘉峪関の中心部を出たのが、14時ごろ。バスは東に向かって走る。途中からは高速道路。といっても、高速で走れるほど道路状態はよくない。30分ほどで酒泉の汽車站に到着。

酒泉の鐘楼  Bell Tower at JiuQuan

酒泉(ジュー チュェン)と言えば、中国航天(ツォン グォ ハン ティアン)のロケット打ち上げ基地が有名だ。あの長征ロケットを打ち上げることも出来る。昔は粛州(スー ジョウ)と呼ばれていた街だ。
街の中心部の鐘楼(ジョン ロゥ)に向かって歩く。嘉峪関よりは店が多いし、なにより街の中心部に人がたくさん居る。商店街のようなところの露天の喫茶店で休憩。鐘楼を越えて、さらに1km程度歩く。アパートの立ち並ぶ住宅街になる。酒泉公園(ジュー チュェン ゴン ユェン)の入口に着く。入場料8元払って中に入る。ここに来たのは、酒泉の名前の由来になった泉を見るためだ。地元民にとっては、遊園地といったところだろうか。池にはボートが浮かび、公園内は変なデコレーションが施されている。動物園もある。その公園の真中辺りに、3m四方くらいの小さな泉があった。水は湧き出ているようには見えない。小銭が投げ込まれている。トレビの泉じゃあるまいし、願い事はかなわないと思うのだが。

文化宮前での建党80年を祝う踊り
dance in front of the culture center

公園を出る。オートリキシャーが何台か停まっている。汽車站まで5元だそうだ。乗ってみる。単なるぼろバイクの後ろに、ブリキで作った箱が付けられているだけなので、揺れる。その上、自転車並に遅い。10分程度で汽車站に着く。嘉峪関へのバスに乗る。このバスもまた、客集めのために30分程度バスターミナルの周りをうろちょろしていた。

17時ごろ嘉峪関に到着。一旦ホテルに戻ってから、市内中心部へ歩いて行く。20分程度かかる。道沿いの街路樹に給水車が水を補給している。街路樹は側溝のように窪んだ所に植えてあるので、水は街路樹に沿って向うまで流れていく。交差点では、水が流れるようにトンネル状になっていたりする。なかなかいいアイデアだ。

新華南路の林苑酒店というそれなりのレストランに入る。観光でやってきた中国人などで混雑している。いろいろ頼んで21元ほど。店もきれいだし、まあまあではなかろうか。ホテルに戻る途中、新華南路と建設路(ジャン セー ルー)の交差点のところにある文化宮(ウェン ファ ゴン)の前で盆踊りのような物をやっている。垂れ幕には「慶祝建党八十周年」となっている。つまり、中国共産党建党は1921年ということだ。1912年に中華民国が発生しているので、その9年後のことである。

万里長城 (ワン リー チャン チェン)
紀元前4〜5世紀の「戦国時代」に斉、中山、楚、燕、趙、魏、秦などの諸国が国境防衛のために造ったのが始まりだそうだ。その後、紀元前3世紀頃、秦王朝が中国を統一すると燕や趙のつくった北辺の長城を連結し、さらに西方へと延長して、甘粛の岷県付近まで延長した。その東端は赤峰から遼陽付近に至った。
紀元前2世紀に前漢王朝によって長城はさらに西に酒泉・嘉峪関まで延長された(武帝の時代)。その後、前漢王朝期には敦煌西方の玉門関まで長城が延長された(現在考えられている長城の最西端)。
その後、中央の権力が西方に及ばなくなったりしたため、長城の西方については放棄されていたが、明王朝期の16世紀に、嘉峪関までの長城が再整備された。清王朝期には、中国の領域は長城の北方のモンゴルにまで及んだため、再び長城は放棄された(意味をなさないため)。共産党時代になって、観光のために各所(北京近郊や嘉峪関)で長城が再び修復され現在に至っている。

詳しい解説は : http://www3.justnet.ne.jp/~wadayoshio/chinainf.htm


JULY 1 嘉峪関(甘粛省)
JIA YU GUAN - CHINA(嘉峪関、中華人民共和国)
昨晩買っておいた、インスタントラーメンを食べてホテルを出る。ホテルの前に停まっているタクシーに乗り込む。懸壁長城(シュエン ビー チャン チェン)まで往復60元だそうだ。タクシーは昨日見た嘉峪関城の駐車場の横を通り過ぎて、さらに北東の山地を目指す。左手には嘉峪関城から伸びる万里長城が頼りなげに山地に向かっている。しばらく砂漠を走って、オアシスに入る。懸壁長城の入場門があらわれる。タクシーには2時間ここで待っているようにお願いする。入場料8元払って中へ。草すら生えていない岩山に、長城が吸い込まれるように登って行く。入口から見ると、山の中腹辺りに砦が見える。

懸壁長城 : 嘉峪関山にへばりつくようにして壁が造られている
XuanBiChangCheng : great wall climbs up to the mountain

あんな高いところまで登らないといけないのか…

入口横の階段で壁の上の通路に登る。手元の高度計では海抜1700m。さて、頂上は何メートルであろうか。あまりの強い日差しに、タオルを頭に巻いて登る。坂は、最初はゆっくり… ではなく、いきなり急激な上り坂。上海から来ていた写真同好会の人が何人か途中で座り込んでいる。日差しを遮る物のない通路で、2回くらい休憩して、20分ほどで一つ目の砦に到着。二つ目の砦はそこから5分程度。写真同好会の数人が居るだけで、嘉峪関城のように観光客がわんさか来ているということもない。砦から嘉峪関のほうを振り返ると、今登ってきた細い壁がずっと嘉峪関城の方に続いている。嘉峪関城の楼閣がかろうじて見える。その向うには雪を頂いた祁連山脈が横たわっている。南のほうには嘉峪関市の市街地がぼんやりと見える。その辺りに工場の煙突が何本か出ていて、勢いよく煙を吐いている。こんな田舎に、無理やり工場を作っているようだ。
以前訪れたロシアを思い出す。シベリア鉄道に沿って、国策として工場を建設したが、民主化されて採算が重視されると、ほとんど全ての工場が廃墟となっていた。中国でも、こういった国策で無理やり作った工場は、将来性がないだろうと感じる。

懸壁長城  XuanBiChangCheng

東の方を見ると、何もない平地が続いている。万里長城が遥か東に向かった延びているのが見える。黄海に出るまで5000km近く、よくまあこんな壁を作ったものだ。
西の方は、山岳地帯。岩山の上に、寺院か何かの屋根がぽつぽつと見える。あんな所に登る人いないだろうな。

砦から出て、少しだけ山を登ってみる。岩山の頂上までは、まだかなり高さがある。ちなみに一番上の砦の標高は、1815m。入口から垂直距離にして115m登ってきたわけだ。30階程度のビルに登ったのと同じ高さだ。

山を降りて、タクシーに乗り市内中心部へ。雄関路と新華路の交差点に中国電信(ツォン グォ デァン シン)がある。そのすぐ東側に、インターネットカフェを見つける。1時間5元。なんと、日本語フォントと日本語IMEがインストールされている。日本人も結構来るのだろう。中国電信の南側に郵政局(ヨウ ツェン ジゥ)があったので入ってみるが、郵政預金だけで通常の郵便業務はしていないようだ。再び昨日と同じ食堂で昼食を食べる。定食の名前は、一葷一肉二素一湯で5元。すぐ向側にある人民商場に行ってみる。日本でいえば、20年以上前の、近所の公設市場といった雰囲気だ。まあ、旅行客には大して見るものもないようだ。

新華南路沿いの人民商場
People's market on XinHuaNanLu

バス1路に乗り、新華南路を南へ向かう。ホテルの近くの文化宮を通り過ぎた次のバス停で降りる。博物館の横に郵政局がある。薄暗い郵政局の中に入る。窓口がひとつあり、係員の女性がひとりだけ座っている。テレビで中共建党80年記念の切手等が売り出されているといっていたが、どのようなものがあるか聞いてみる。切手は売り切れのようだ。絵葉書があるという。どんな絵柄があるか、全部出して見せてもらう。気に入った順に枚数に差をつけて購入する。「共産党マークと天安門」、「ケ小平(ドン シャォ ピン)と香港の夜景」、「江沢民(ジャン ツェー ミン)と人民大会」、「毛沢東(マオ ツェー ドン)(の若い頃)と天安門」の順である。毛沢東は天安門に掲げられている「年寄り」バージョンでなく、革命当時の「青年」バージョンだ。郵政局の職員も、さすがに人気ないねぇと言って笑っていた。(1枚60分(=6角))

ホテルまで歩いて戻る。帰り道に買ったほとんど凍った水を飲む。暫く昼寝して、外へ。昼頃まで晴れていた空に、所々入道雲の小さいやつが浮かんでいる。雨が降ったら涼しくなるだろうなと思うが、雲から落ちてくる雨水は、空の途中辺りで消えている。地上には風だけが吹き付けてくる。砂漠の砂埃が吹き付けてきて、目に入りそうになる。

建党80年の歌を練習する合唱団
rehearsal for 80th anniversary of China communist party

昨晩、夕食を食べたレストランへ。違うメニューを選んで食べるが、22元で済む。レストランを出て、新華南路を歩いていると、どこからともなく音楽と合唱の声が聞こえる。とある役所のような建物の敷地内で、合唱の練習をしている。門から中へ入っていって見学する。歌の最後のクライマックスのところで、赤旗と「慶祝建党80周年」のプラカードを出すタイミングがずれていて、指揮者が何度もリハーサルをやり直していた。
合唱の練習が終わり、団員が建物から出て行く。あるものは自転車に乗り、または徒歩で南のほうへ歩いて行く。ついて行ってみる。新華南路の突き当たりの広場にたくさんの人が集まっている。様々な合唱団を運んできたバスが停車している。人民解放軍も大量に集結している。広場の南の端に、「慶祝共産党建党80周年」と書かれた垂れ幕が置かれている。先ほどの合唱団は、本番前の練習をしていたんだ。北の空がにわかに曇ってきた。ぱらぱらと雨粒が落ちてくる。(夕立?) 人々が身構える。 向う側にあるアパートが、土色の雲に包まれる。 「!」 砂嵐だ。猛烈な風と共に、砂嵐が式典会場を襲う。が、5分ほどで何事もなかったかのように通り過ぎていった。

広場で配布していたパンフレットによると、「嘉峪関市慶祝建党八十周年文芸晩会」というのが正式名称のようだ。観客席は、出演者専用で、一般人はそこを遠巻きにしてみることになる。街からどんどん人がやってくる。ステージを見るのに押し合い状態になる。8時30分、「東方紅」のミュージックがスピーカーから流れる。いよいよコーラスが始まる。出演者は … なんと全てが役所ばかり。というか、この街に役所以外の大企業なんてないのだろう。
出演順に、老干局、法院、教委、工商銀行、郊区工委、国税局、公安局、公路総段、…、68243部隊、衛生局、工商局、68213部隊。こんな小さな街で、役人が役人のために作った街のようだ。歌う曲もまたすごい。「我和愛的祖国」、「毛主席詩詞(長征)」、「我的祖国」、「没有共産党就没有新中国」、…「人民軍隊忠干党」。

すごいね。


JULY 2 嘉峪関→敦煌(甘粛省)
JIA YU GUAN -> DUN HUANG(公共汽車:嘉峪関→敦煌)

嘉峪関汽車站の候車室
JiaYuGuan bus terminal

8時、インスタントラーメンを食べて、ホテルをチェックアウト。嘉峪関汽車站(バスターミナル)まで勝利南路を歩く。8時30分ごろバスターミナルに到着。バスはまだ来ていないようだ。バスの発車時刻の9時になってもバスは現れない。9時20分くらいにバス(小型バス)が到着する。乗客数人がバスに乗り込む。空調の料金を取られているのだが、何故か窓を開けている。9時40分ごろバスターミナルを出発する。20席程度の座席はほぼ埋まっている。嘉峪関城の横を通り過ぎて、左右を山脈に挟まれた砂漠を走り出す。左手の山脈は5000mクラスの山々が連なる祁連山脈。右手は2000mクラスの岩山だ。
道端に人がいると、客引きをするところは酒泉へ行くバスと同じだ。まだ朝なので、窓からの風で暑くない程度だ。バスは快調にトラックなどを追い抜いて走る。道路は所々に段差があるが、きわめて整備された道路だ。バスは時速80km/h以上の速度でぶっ飛ばして走る。砂漠(土砂漠)の所々にオアシスがあり、少々の建物がある。道標3000kmを通過する。蘭州からの距離だろうか。

突然、牛が飛び出してきた
cow jump into the road

12時頃、大きなオアシスに入る。バスターミナルのような所に到着する。玉門鎮(ユゥ メン ツェン)站だ。嘉峪関から約130kmの地点だ。昼食休憩のようだ。といっても、バスターミナルらしきところにあるのは、1件の売店のような物だけ。今日の昼食はあきらめることにする。とりあえずトイレへ。1.5元払って中へ。「中国式厠所」はかなり汚い。当然手を洗う水など出るわけがない。バスに戻る。12時30分ごろバスが出発する。オアシスを出たところで、いきなり牛が道に飛び出してくる。バス、急ブレーキ。牛の群れは悠々と車道を横断してゆく。あれが人間なら轢かれてるところだ。

暫く行ったところで急に渋滞。事故だろうか。バスはぴたっと止まったまま動かなくなった。窓から風が吹き込まなくなると、当然暑くなる。1時間ほどしてやっとバスが動き出す。事故現場に差し掛かる。真っ黒な油が地面にこぼれている。何人もの労働者が砂をその上に撒いている。原因は、中国郵政のトラックが油で進めなかったようだ。バスはここで始めて冷房をかける。

さて、1時間の遅れを取り戻すために、にわかにスピードアップしたバスは、運転席の内側に掲げられていた「嘉峪関-敦煌」のサボも取り外してしまった。道中の客を拾うのも止めたようだ。

公路312号 道標 3042 km 玉門鎮〜安西
灼熱のゴビ砂漠をひたすら西へ  on the Gobi desert
National Road no.312, 3042 km from LanZhow

だんだん暑くなってくる。冷房の効きもそんなによくない。嘉峪関〜玉門鎮に比べて、玉門鎮〜安西ははるかに荒れた土地になっている。左右にあった山脈も、かなり遠くになっている。道はまっすぐ西に続いている。遥か向うに鉄道の線路が並行して走っている。たまに貨物列車が走っているのが見える。

あちらこちらで小さな竜巻のような物が起きている。土砂漠の砂が雲ひとつない青空に吸収されてゆく。15時30分ごろ、安西(アン シー)に着く。数人の乗客を乗せてすぐに発車する。補助椅子まで満席になる。蘭州から鳥魯木斉(ウルムチ)に向かうメイン路線の312号線からそれて、安西から敦煌に向かう315号線に入る。道標が0kmにリセットされる。道が急に悪くなる。簡易舗装だ。バスが揺れる。

祁連山脈の方向に向かってゆく。山脈の手前で再び西へ。車内温度はさらに上がっている。冷房はまったく効いていない。空調の噴出し口からは、温風が吹き出している。安西までは車窓の景色を見ている客もいたが、さすがに全ての窓のカーテンが引かれ、全ての客が敦煌到着を待ちわびている。所々に、洪水か何かで出来た泥の痕がある。こんな場所でも雨が降るようだ。右手に物見台のような古代の建造物がひとつ、ふたつと見える。通信の中継所のアンテナ塔もあった。敦煌空港の管制塔が左手に見える。オアシスに入る。16時、敦煌汽車站に到着する。383kmの道のりを7時間30分かかった。(途中1時間の事故停止があったので、平均速度は60km/h程度)

DUN HUANG(敦煌、中華人民共和国)
バスから外に出る。バスの中より遥かに暑い。バスターミナルの中にホテルがある。とりあえず部屋を見せてもらう。150元/日だそうだ。シャワールームがきれいでなかったので、他を探す。道に出る。ホテルの客引きがやってくる。ホテルを探す気力がそんなにないので、ついてゆく。交差点を挟んだ向かい側のホテルに入っていく。广源大酒店(グァン ユァン ダー ジュゥ ディアン)という。部屋を見せてもらう。まあまあだ。ツインルームが200元/日。ここに決める。

陽関路交差点の反弾琵琶伎楽天像 (飛天像)
monument of YangGuanLu cross

ホテルの横の雑貨店で、ミネラルウォーターを買って、部屋に入る。昼寝。疲れた。

20時ごろ、外へ。やっと太陽が傾いて、通りに日陰が出来ている。気温は体温くらいあるのではないだろうか。息苦しい。先ほどバスから降りた斜迎えの建物にも敦煌汽車站と書かれている。その横の四川大排档と書かれた店に入る。「冷気開放」とかかれている割には、冷房がかかっていない。これくらいの暑さは、人民には大した事ないのだろうか。かなり疲れているので、麺類を5元で食べる。今日食べたのは、インスタントラーメン(朝)とラーメン(夜)の2食だけだ。明らかに栄養が足りていないが、7時間 ひどい揺れのバスに乗って、胃がひっくり返りそうなので食べることが出来ない。

21時過ぎに日が暮れる。甘粛省と北京とでは実質2時間程度の時差があるが、中国の国内事情で「北京時間」を採用しているため、このような遅い時間に日が暮れる。まるで、欧州の高緯度地方を旅しているような感じだ。(逆に、朝は7時ごろにしか日が昇らない)


JULY 3 敦煌(甘粛省)
DUN HUANG(敦煌、中華人民共和国)
7時ごろ起床。鳴山路(ミン シャン ルー)の店で粥を食べる。鳴山路に停まっている軽ワゴン車に「莫高窟(マオ ガオ ク)」と書かれた紙が掲げられている。運転手に値段を聞くと、片道10元だそうだ。乗り込む。暫くしてワゴン車が発車する。鳴山路を行ったり来たりしながら客を拾ってゆく。ワゴン車は市内を出て、東へ。オアシスの林の中を20分程度走ると、敦煌空港の前に出る。その手前を右折(南へ)。ここから砂漠となる。遥か南の祁連山脈の方向へ向かう。10分ほどで道が西に曲がっている。遥か向うに小さなオアシスが見える。右手にも小さな崖が見える。よく見ると、崖の壁面にたくさん穴があいている。
石窟寺院だ。(昔の地図には千仏洞とかかれていることもある。世界遺産に登録されている莫高窟だ。)

軽ワゴン車は駐車場に入る。観光バスが何台か停まっている。12時に帰りの便が出ると運転手が言っている。駐車場に隣接した建物で、入場券を売っている。100元。えらく高い入場料だ。
枯れ川にかかる橋を渡って、暫く行くと崖の横に柵がある。ここにも入場券売り場と荷物預かり所がある。ゲートを入る。ゲートのところにいる係員が、日本語で「適当な団体について行って下さい」と言ってくる。入場券には 「外語導遊」と書かれてはいるが、その辺の日本人ツアーグループに着いていけとは無責任な応対だ。(普通、観光地でツアー形式でしか見られないところは、定まった時間ごとにグループを作って、ガイドが案内する形式だ)

莫高窟  (公開されているのは左側の木の裏側あたり。右の方は未公開)
MaoGao grotto

適当な日本人の後にくっ付いていく。とりあえず、外側に建物のような物が建っている巨大な石窟に入る。中には大仏が鎮座している。が、暗くてよく見えない。何人かの日本人が懐中電灯を持っていて、それで大仏や壁面の絵画を照らしている。ガイドが「日本語で」なにやら説明して、数分程度で次の洞窟へ。どの洞窟も照明が全く無く、懐中電灯で照らされたところを見るしかないようだ。まあ、確かにイスラムに破壊されていない貴重な壁画ではあるようだが、仏教美術に詳しくない私には、どれも似たようなものにしか見えない。

ひとつのツアーグループは10前後の洞窟を見て回っている。洞窟の数は遥かにたくさんある(ガイドブックでは492個らしい)ので、いろいろと別のツアーグループにくっ付いていくことで、様々な洞窟を見ることが出来る。中国人のツアーグループにくっ付いて行っても、特に問題は無い。全部で20〜30程度の洞窟を見る。美しいというより、貴重な物を見せていただいたという感じだ。
さて、他のグループにくっ付いて行っても、新しいところは行きそうにない。(経験から、日本人グループは階段を登るのを嫌うのか、1階と2階層辺りまでしか見ないが、中国人グループは上のほうの階層にあいている洞窟まで見て歩く。)
96窟の建物状の物に、上まで続く階段がある。途中狭くなったりしているが、上まで登れそうだ。登ってみる。屋根の上に出る。屋根の上では労働者が(コールタールのような物を塗って)屋根の補修を行っている。「屋根の上=崖の上」なので、崖の上の地面に出ることが出来る。遥か西方まで土砂漠のようだ。崖の下に林があるのとは対象的に、上は完全に砂漠。駐車場の方向(東方)を見ると、なだらかな岩山が続いている。祁連山脈の一部の山なのだろう。団体客はほとんど帰ってしまったようで、下にはほとんど人がいない。何人かがこの建物のような物を背景に、記念写真を撮っているのが見える。(とうぜん、私の姿も入っているはず)

莫高窟 第96窟  MaoGao grotto , no 96 cave

下に下りる。ゲートを出て、枯れ川の橋を再び渡り、向かい側にある「展示館」に入る。莫高窟から剥ぎ取ってきた、本物の床面のモザイクタイルが展示されている。また、有名な洞窟のレプリカも展示されている。こちらは、ちゃんと照明がついている。なぜ、本物の洞窟の方も照明をつけないのだろうか。(同じような洞窟寺院で、昨年訪れたトルコのギョレメでは、照明はついていた。) それに、ツアー客中心の運営方法も、個人旅行客には甚だ不便なものだ。(もし、ツアー客が少ないときは、見られる洞窟の数が少ないだろうね。)

売店でミネラルウォーターを買う。市内より高く4元もする。12時、再び軽ワゴン車に乗り、敦煌市内へ戻る。朝来たときの外国人客は、とうに帰ってしまったのか、中国人カップルだけが同じだった。

敦煌市内に戻り、陽関南路(ヤン グァン ナン ルー)のイスラムレストランに入る。焼肉のような物と、麺類を頼む。羊肉の強烈にスパイスが効いたものが皿に山盛りと、マカロニより小さくきったパスタのような、トマトベースの味付けの麺類が来た。さすが、清真(イスラム)料理店だなと思う。中国料理とは全く違うセンスだ。

鳴沙山 (中央やや左の稜線に2人との対比で、砂丘の大きさが分る)
MingShaShan (dune of Gobi desert)

鳴山路のネットカフェに立ち寄り(10元/時間)、ホテルに戻り休憩。

19時ごろ、ホテルを出て、向かいにある食堂で夕食(拉面と飯 6元)。食堂の前でタクシーを捕まえる。鳴沙山(ミン シャ シャン)まで往復で幾らになるか聞いてみる。30元という。2時間の待ち時間を含んでのことだそうだ。3時間というと、40元となる。交渉成立。15分程度で鳴沙山の砂丘から少し離れた駐車場に着く。そこから、(閉店間際の)みやげ物の並んだ通りを歩くと、砂丘の入口がある。(砂丘のくせして、入場料を取るとは、さすが中国だ) 入場料を50元も払って中に入る。

ツアー客を含むほとんど全ての客は、入口の前からラクダや車に乗るか、徒歩で平らな道を「月牙泉(ユェ ヤー チュェン)」に行くようだ。私は、やはり砂丘に来たのなら登らなければと思う。砂丘を見上げる。数人が砂丘の上にいるようだ。かなり急角度に見える。

鳴沙山の日没。月牙泉も中央下に見える
sunset of MingShaShan

入口からまっすぐ行って、砂丘の稜線に取り付く。稜線の上からは、月牙泉も見える。ゆっくり、バランスを崩して斜面に転げ落ちないように登る。モロッコで登った、サハラの砂丘より急な気がする。年をとったせいだろうか…。20分程度で頂上に着く。頂上付近には10人程度が座っている。さすが見晴らしがいい。21時にもかかわらず、太陽光線はまだかなりきつい。頂上付近に座って日没を待つ。21時20分、西の地平線に太陽がゆっくりと沈んでいく。背後の空には、満月に近い月が。頂上付近にいた人が帰り始める。太陽が沈んでからも暫く頂上にとどまってみる。月牙泉の辺りで、時折フラッシュの光が現れる。南のほうには、月明かりに照らされた砂丘が延々と続いている。風が出てきた。だんだん強い風になり、砂がたたきつけるように飛んでくる。稜線付近は特に砂が激しくたたきつけられているようだ。砂丘から降りる。入れ替わりに、若いカメラマンが顔にタオルを巻いて登っていく。月夜の砂漠を撮影するのだろう。

すでに全ての店が閉まって、全く照明の無い道を駐車場まで歩く。タクシーが一台、ぽつんと駐車場に待っていた。タクシーに乗り込み、街灯ひとつ無い道を敦煌市内に戻る。


JULY 4 敦煌(甘粛省)
DUN HUANG(敦煌、中華人民共和国)
8時30頃ホテルを出て、昨日の朝と同じ店で牛絲面(5元)を食べる。店の壁に、飲食業の許可証や衛生関連の検査証などが掲げられている。中国でも、不衛生だと閉店させられるのだろうか、と考える。

陽関中路 YanGuanLu

今日は特にやるべきことも無いので、とりあえず、飛行機の予約のリコンファームに行く。陽関東路の街外れに民航售票処がある。(後で気づいたのだが、鳴山路にも西北航空の售票処があり、遥かにこちらの方が近い) リコンファームはとりあえずOKのようだ。少し市内中心部の方向に戻ったところに、敦煌市博物館がある。入ってみる。入場料10元。博物館には誰も客が来ていないようだ。建物の外には、でかいらくだの像と、超旧式のジェット戦闘機のスクラップが置かれている。(中国にとっては「超」は付かないのかも知れないが…)
館内には、敦煌周辺のジオラマが多数設置されており、莫高窟や鳴砂山などの観光名所の地理的関係がわかる。万里長城はこの辺りまで延びていたこともあったようだ。
そのほか、シルクロード交易の中継点であった時代の遺物が展示されている。

博物館を出て、向かいにある夜光杯厂(工場)を見る。観光客向けに、石を削っている工房が見られるようになっている。何故か日本語でも説明書きがある。でも、工場はお世辞にもきれいとはいいがたいし、おそらく出荷量もそう多くないようだ。(まあ、結構ぼったくりの価格するので、買う人もそう多くは無いのだろう。)

旅社が並ぶ通り

陽関路の交差点が街の中心で、中央には反弾琵琶伎楽天像という天女の像のようなものがある。北西角に郵政局がある。絵葉書を出す。60分の切手が印刷された「中共80年明信片」は、プラス4元で日本まで届くようだ。切手を買い、デスクにある糊(何故か割り箸で伸ばす)をつけて貼り付けて、ポストらしき物に放り込む。郵局の前のロータリーには、身長と体重を測る商売が何箇所か出ている。大抵は、単なる棒にICが仕込まれたものだが、1つだけロボット型の代わったやつが存在していた。

鳴山路のネットカフェでニュースなどをチェックする。香港に台風4号が接近しているようだ。2日後に直撃の模様。その後ろに熱帯低気圧が同じ進路を進んでくるようだ。困ったことである。あの熱帯低気圧が上陸する頃に、香港に行かねばならない。まあ、私の移動経路は陸路なので恐らく大丈夫だろう。

ホテルに戻り、汚れた服などを洗濯する。ズボンを洗って乾かすのは、この街が最後になるだろう。(北京は恐らく湿度高いだろうし、香港は言うまでもない)

13時ごろ、鳴山路のレストランで昼食。麻婆豆腐や青椒肉絲等を食べて11元。食事時を過ぎていたので、レストランはがらがらだった。鳴山路の一本裏手(東側)の道は、中国人向けの旅社や招待所が集まっている。廊下にテレビが置いてあり、宿泊客がそろってテレビを見ているのが外からも見える。旅社でも、「淋浴、電話、空調、電視」と看板に書かれている所もあるので、かなり快適なところもあるのだろう。

ホテルに戻って休憩。さすがに14時ごろになると、外に居るのがつらくなる。14時から17時までは、あまりの暑さと、強烈な直射日光で外出は出来ない。
19時ごろ、ホテルの前の食堂で夕食(8.5元)。ついでに、バスターミナルの售票処を覗いて見る。
参考までに、主な行き先とデータを書き写してきた。
行先 距離 硬座 空調
安西 117km 13.6元 22.0元 19.6元
玉門鎮 257km 29.3元 47.6元 42.4元
嘉峪関 383km 43.9元 71.2元 63.4元
蘭州 1148km 132.6元 214.5元 191.1元
柳圓 130km 15.1元 --- 21.7元
格爾木 524km 60.2元 97.6元 86.9元

チベットへ行かれる方は、ここから格爾木(ゴ ァル ムー)までバスに乗るか、蘭州から鉄道で格爾木へ行くかどちらかとなるだろう。

果物店  fruits shop

バスターミナルの前には、求人広告が掲示された掲示板がある。1ヶ月の給与は、あるホテルの女性従業員は300元程度。工場労働者で250元程度というのが相場のようだ。安いねぇ。
その後、市場路を見に行く。手前は、食品などを扱う店が多く、奥に行くに従って日用品を扱っている。日用品は、欧米や日本の偽ブランド品が数多く売っており、当局の取り締まりも日用品には及んでいないようだ。
陽関中路に出て、ロータリーを通り過ぎ、小南街へ。「強国富民」と時代遅れのスローガンの門をくぐると、露店の食堂が集まっている。昼間はデイツやクッキーを売る店がちらほらあったところが、夜は居酒屋的店が集まっている。おそらく、観光客向けの屋台街なのだろうが、今日は観光客が少ないので閑散としている。

夜光杯 (イェ グァン ベイ)
祁連山脈で採掘される暗青緑色の石を削って作ったグラス。標準的なものは高さ7cm程度。王翰の漢詩 「涼州詞」 で次のように歌われたことで有名らしい。「葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回」
酒泉や嘉峪関には夜光杯厂があるし、土産物屋などでも売っていたりする。