DECEMBER 23 LUXOR-EGYPT
ASWAN - EGYPT (アスワン、エジプト)

アスワン駅で出発を待つ 981列車  Train 981 at Aswan station

4時起床。4時30分、ホテルをチェックアウト。フロントで再生紙で作った箱に入れられた朝食(パン3個、ゆで卵、チーズ、ジャム)を受け取る。真っ暗な誰も通らない道を、駅へ。駅にはぱらぱらと人が来ていた。
X線検査を通って中へ入る。売店がもうやっている。ミネラルウォーターを買う。2EGP。列車には行き先表示がまったくなされていないが、その辺の人に聞くとルクソールには行くらしい。列車は5時ちょうどに出発。

2等の車両だが、発展途上国の割にはそれなりにきれいだ。2重窓にブラインド、冷房完備とはギリシア国鉄をはるかに勝る車内装備だ(?)。同じ車両には、フランス人カップル2人、白人系老夫婦2人、私の横にはバルカン半島辺りの欧州人か何なのかわからんおじさん1人(車内販売を買うときのしぐさといい、Star Wars Episode I のジェダイの騎士そっくりな雰囲気と身なり)。

真っ暗な中、列車は南へ。意外なことに、揺れは少なく、平均時速66km/h (=208km/3h10m)というJRの快速並みの速度で走る列車だ(意味不明の書き方ですみません)。6時30分頃、東の空が明るくなり太陽が昇ってくる。車内には食べ物や新聞などの物売りがひっきりなしにやってくる。
途中の駅でだんだん人が増え、7時20分頃停まった Esna 駅で満員に。網棚も食料品のダンボール箱などで超満員だ。

LUXOR - EGYPT (ルクソール、エジプト)

予定より10分遅れの、8時10分、ルクソール駅に到着。列車を降りると、エジプト人が私の名前(間違った名前)を呼んでくる。分かりやすいところで待っているものだ。さて、駅舎から出ようとすると、タクシーに乗ってホテルに行くと言う。私、「Horus Hotel を予約してるんだ、歩いて行く。」と言う。旅行代理店「Horusは予約できない、ほかのホテルを予約した。2 star から 3 star に変更してるんだ」と。またまた違うものを予約するエジプト人である。私、「それはタクシーでしか行けないのか?」と聞く。詐欺師、「歩いて行けないことは無いが、タクシーで行く。」と。私、「タクシー代は、あんたが払え!」と言う。詐欺師、「…」。

タクシーは、わざとかどうか知らないが、町の中をぐるぐる回り、なんだか遠くに行くようだ。「遠いじゃないか!」と聞く。詐欺師、「込んでいるところがあるから迂回してるんだ。」と。
(実際は、込んでいるところでなく、一方通行があるから最短距離を走れないという事だ。)

ホテルに到着。私が泊まるにしては豪勢なホテルだ。ちゃんとしたビルである。入り口を入るとフロントがあり、ロビーには噴水が湧き出ている。朝早いので、部屋の用意がまだのようだ。(それとも、ツアーの勧誘をしたかったのか。)ロビーのソファーに私を座らせ、ルクソールでの予定はどうなってるのか聞いてくる(大きなお世話だ!)。西岸と東岸を一般の観光客が行くようなお決まりの観光地を回ると説明する。詐欺師、「どうやって行くつもりだ?」。私、「レンタル・サイクル」。詐欺師、「遠い、山が険しい、行ける訳が無い。全ての人がギブアップして、タクシーに乗っているぞ。車に乗って、全て案内してやる。とかなんとか。」。私、「人間にいけないところは無い。ネットでも行ったやつの証言があった。おれは何が何でも自転車で行ってやる。」。詐欺師、「…」。
なかなか部屋は用意できないようだ。詐欺師が、「近頃日本人の旅行客がまったく来ない、日本人はエジプトを危険だと思っているのか?」と言う話から、私がありのままに「外務省が 危険度2を発令して、テロの危険があること。そういう状態でエジプトに来る日本人は相当変なやつしかいない。」と説明したのがきっかけで、詐欺師とテロの件に関して議論になる。(内容が危険なので、ここでは書きません)

ルクソール〜カイロの切符は後日くれると言っていたが、「明日の午後」受け取ると約束させる。やっと部屋のかぎをもらい、部屋へ。トイレの水が流れない。部屋を変えさせる。別の部屋へ。テレビの電源コンセントが壊れている。直すように言う。

 

エジプトの軽食 『コシャリ』  Egyptian fast food "Koushary"

荷物を置いて、外へ。ホテルの前のTelevision Street を北上して、突き当たりの角のところにインターネットカフェを発見。10EGP/1hour。オランダを出て以来のメールチェックをする。日本のニュースをチェックしてみると、海上保安庁が某国家の偽装艇を撃沈したようだ。CNNなども同様の報道。ブッシュのテロ撲滅作戦がここまで及んだのか、小泉首相になって日本がやっと国際的にまともな軍事力を発揮しつつあるのかは知らないが、撃沈はいいことである。

駅のほうへ向かう。何軒か貸し自転車屋がある。そのうちの1件に、まともそうなマウンテンバイクが格納されているのを発見する。店主の老人に聞く、「1日幾らだ?」。店主、「1日 7 Pound」。私、「後で戻ってくるから、この自転車(マウンテンバイクを指差す)取って置いてくれないか?」。店主、「5 Pound」。 5EGP 払って駅のほうへ。雑貨店を見つける。カメラを売っていないか聞く。2機種あるそうだ。プラスチック製のおもちゃのような(固定焦点)カメラで、ISO 400 まで対応するほうは、180 EGP(約 5,200円)。日本で買うよりはるかに高価なので、やめておく。

駅へ。カイロまでの列車の本数を確認する。かなりの列車が走っているようだ。これなら旅行代理店の詐欺師に騙されても、カイロに戻れなくなる心配はなさそうだ。近くの薄暗い軽食屋でコシャリとやらを食べてみる。3 EGP。これはまるで、「犬のえさ」である。米とスパゲティの切り刻んだものとマカロニの切り刻んだものと木の実をゆですぎた物に、トマトベースのソース(イタリアンのトマトソースを想像してはいけない)をかけたような物である。日本でいう「お茶漬け」のような簡易的な食べ物なのだろう。

自転車屋に戻り、自転車を借りる。2日で15 EGP。「?」。「1日7 Pound なら、2日で 14 Pound では無いのか?」と言うと、店主、「2日は 15Pound。」と譲らない。さらに、チェーン錠は1日 1EGP と再び金を取ってくる。さらに「人質」としてパスポートを預かられてしまう。(現地人価格なら、3EGP/日以下らしい。)

アメン神殿の大列柱室 (カルナック神殿)
Great Hypostyle Hall of Amun Temple, Karnak

マウンテンバイクに乗り、北へ。カルナック神殿(Temples of Karnak)へ向かう。駅前を通り過ぎ、ルクソール神殿の前を右折して北上。タクシーや乗合トラック、馬車などが無秩序に走るでこぼこ道を、車に撥ね飛ばされないように走る。15分程度行った所で、道が二手に分かれている。車はほとんど右の方(北東の方)へ曲がって行くが、通りがかりのおっさんに聞くと、カルナック神殿は直進すればいいらしい。さらに5分ほど行くと、大きな門にぶつかる(コンス神殿の入り口の門?)。作業車の通路のような門があったので、入っていこうとすると作業員に止められた。入り口は道に沿ってさらに向こうの方に行った所にあるらしい。
さらに北に行く。観光バスなどが止まっている駐車場がある。入場口のようだ。チケット売り場の横に自転車を止めて、チケット  20 EGP を買う。入場口から見える遺跡は、巨大な壁のようだ。アラブ人が、この町に攻め込んだときに、『巨大な城がある!』と警戒したのも無理はない(ルクソールは本当はアル・クサルと書き、ラテン語 Le castle と書けば意味はお分かりであろう)。私が見たことがあるこの手の巨大神殿では、アテネのパルテノン神殿をはるかに越える大きさの神殿ではなかろうか。スフィンクスの並んだ参道を通って、神殿の中へ。欧州からのツアー客がぱらぱら見学している。世界遺産の写真集などでよく見かける大列柱室 (Great Hypostyle hall)に入る。巨大なヒエログラフや絵が描かれた円柱が立ち並んでいる。天井を支えるための円柱ではなく、単に円柱を見せるための「円柱の部屋」。神々や国王の偉大さを誇示したかったのだろうか。

列柱室を抜けさらに奥に行くと、視界が開ける。巨大なオベリスク(Obelisk)が立っている。エジプトに現存する「ちゃんと立っている」オベリスク6本のうち、2本がここにある。イタリア人らしき団体客がトトメス1世(Tuthmosis I)のオベリスクの説明を受けている。手前にあるトトメス1世(Tuthmosis I)のオベリスクの高さは約22m、奥にあるハトシェプスト女王(Queen Hatshepsut)のオベリスクは約30m。よくもまあこんな大きなタワーを建てたものである。それも、継ぎ目の無い1つの岩である。(30mと言えば、10階建て程度のビルに相当する)

アメン神殿中央のオベリスク(右端がハトシェプスト、中央がトトメス1世)
中央部の柱がたくさん建っているところの下は大列柱室
two Obelisk of Amun Temple, Karnak

さらに奥に行くと、神殿が崩れた地域があり、怪しげなおっさんが景色のいいところがあるので上がってみろと盛んに薦める。少し小高くなったくらいで、そんなに景色がいいとは思わない。降りてくると、「バクシーシをよこせ」である。幾らほしいのか聞いたら、数ポンド以上と言うではないか。馬鹿らしい、この国の労働単価から見て、このおっさんの働きは数ピアストル程度(1/100 EGP = 1 piastre)しかないので、払うわけない。おっさんを無視してさらに奥に進む。この遺跡のいたるところにこういったおっさんがうじゃうじゃいて、勝手に解説をはじめたりしてバクシーシを奪い取ろうとする。警備兵まで、(秘密の場所に案内するから)バクシーシをよこせとせびってくる。 この後、遺跡と言う遺跡でバクシーシ野郎が大量に出現するし、道端の餓鬼までがせびってきたりする。まったくひどい国である。「バクシーシ = こじきへの喜捨」なので、エジプト人は「こじき国民」なのか?

一番奥にはサンクチュアリ(至聖所 sanctuary)がある。ここの建物も残っている。こちらは円柱でなく角柱で支えられた低い建物である。アメン神殿は手前にある円柱室がもっとも背が高く、奥に行くにしたがって背が低くなっている。どうして高さをそろえなかったのか不思議なものである。(これだけの建築技術を持っておきながら)

さて、主要なところは見たような気がするので、ここからが遺跡見物の本番である。神殿の横にある聖なる池(Sacred Lake)の方に行って見る。カフェと売店がる。絵葉書を買う。聖なる池の横を北のほうに行くと、発掘中の遺跡の真中に巨大クレーンが立っている。今まさに神殿が建造、いや復刻されているところだ。と言うことは、アメン神殿の巨大円柱も復刻版なのだろうか? (帰国後、各種文献で調べた限りでは、グレコ・ローマ時代から立っていたものらしい。グレコ・ローマ時代に建造しなおされたときにだいぶいじられたみたいだが…)  コンス神殿(Temple of Khons)の周りには強固にフェンスが張られており近づけそうに無かった。聖なる池の東へ回りこみ、木の板で作られたステージのようなものの前に出る。中に入れそうには無いが、何のための建物なのだろうか。カルナック神殿の東の端を歩く。こちらにも巨大な門のような物が建っている。アメン神殿の北面に沿って歩いてゆく。列柱室の外側の壁にもたくさんの壁画が描かれている。内側も外側も一面の絵なのである。右手(北のほう)に小屋のような物が建っており、ここより北に行くにはさらに入場料を取るようだ。再び列柱室を通り抜けて、アメン神殿の中を散歩。約1時間程度神殿の中で過ごしただろうか、外に出る。

自転車に乗り、町の中心の方へ。
カルナック神殿 (Temples of Karnak)  Karnak complex
ルクソールの北3km程の所にある神殿群。アメン神殿 (Great Temple of Amun) 、モンツ神殿 (Temple of Montu) 、ムート神殿 (Temple of Mut)、コンス神殿 (Temple of Khons)などの諸神殿をまとえてカルナック神殿と呼んでいるようだ。
古代エジプト新王国時代(New Kingdom)のBC 1500 年ころから本格的な建設がはじまったらしい。この頃この地は「ワセト」と呼ばれていたそうだ。入り口から入ってすぐ右側のラメセス3世神殿 (Temple of Ramesses III)。その奥にある大列柱室はセティ1世 (Seti I) のころ築造が始まり、ラメセス2世 (Ramesses II , 在位 BC1279-BC1213) のときに完成したらしい。BC 1290 〜 BC1210 頃の事だ。高さ21m の柱が69本、高さ13mの柱が122本。
トトメス1世 (Thutmose I , 在位 BC1504-BC1492) のオベリスクが列柱室のすぐ東にあり、高さ 約22m。さらにその東に、ハトシェプスト女王(Queen Hatshepsut , 在位 BC1473-BC1458)のオベリスク(高さ約30m)がある。これはエジプトで最も高いオベリスクである。
プトレマイオス朝 (Ptolemaic Dynasty)の BC300年頃にアレクサンダー大王(Alexander the Great , BC356-BC323)が改修する頃まで、約1500年間にわたって増改築を繰り返し、今の形になったそうだ。
http://www.egypt.co.jp/1Gururi/07honbun.html (日本語)】
http://touregypt.net/karnak.htm
http://www.eyelid.co.uk/karnak1.htm
http://www.memphis.edu/egypt/karnaktm.htm
オベリスク (Obelisk)
ピラミッドを造る技術力と統治力が無くなった古代エジプト新王国時代のファラオが太陽神を崇める為に(?)建てた1つの岩で出来たタワー。上端(ピラミディオン)には金箔など太陽に輝く塗装がなされていたらしい。その後、ギリシア人が「肉を焼く串」を意味する「オベリスク」と言う名前をつけたらしい。
エジプトに現存するものは、カルナック神殿に2本(倒れたものを入れると3本)、ルクソール神殿に1本、カイロ市内に1本、ヘリオポリス(カイロの郊外)に1本、カイロ空港に1本あるだけだ。以前はもっとたくさんあったらしいが、列強の略奪によりこれだけの数しか残らなかったそうだ。ちなみに、ローマには13本、パリに1本、ニューヨークに1本、ロンドンに1本、…。我が日本は考古学(エジプト学)がはじめられたのがここ数十年(クイズ番組に出ている早稲田大学の吉村作治先生がその始祖?)なので、1本も奪っていない(第2次大戦までは、一応帝国だったのだが)。
詳しくは…
http://members.aol.com/Sokamoto31/obelisk.htm
http://club.iacnet.ne.jp/~kaisei/tanaka/front.htm

ルクソール神殿の列柱廊
Colonnade of Amenophis III, Luxor Temple

15分ほどでルクソール神殿 (Temple of Luxor) の前に着く。川沿いの歩道に自転車を停める。すぐに観光客用のボートの客引きがやってくる。その辺にいたおっさんが自転車を見ておいてやると意味不明なことを要っている。バクシーシ狙いだ。
20 EGP 払って中へ入る。カルナック神殿を先に見ているので、向こうより小さいなと感じた。神殿の正面のところにあるラメセス2世 (Ramesses II)のオベリスクは左側(東側)の1本しか建っていないが、西側のものはパリのコンコルド広場に現在は建っている。巨大なラメセス2世の坐像の間を通り抜けて、中へ。手前の建物と向こうの列柱廊の角度が違うのは設計を失敗したせいだろうか。こちらは観光客がほとんどおらず、ぶらぶらと散歩できる。大列柱廊もカルナック神殿の大列柱室を見た後では、なんだか小ぢんまりして見える。後悔先に立たず、ルクソール神殿を見てからカルナック神殿を見たほうがいいと思う。一番奥のサンクチュアリ(至聖所 sanctuary)まで行くと、すぐ裏手に一般道路が迫っている。カルナックと違って、町の真中にかろうじて残っている「サンクチュアリ」だ。道をはさんで向こう側にマクドナルドが見える。昼食はあそこに行ってみることにしよう。(すでに14時だが)

ルクソール神殿 (Temple of Luxor)
ルクソールの町の中心部に近いところにあり、ナイル川に面している。古代エジプト新王国時代(New Kingdom)のアメンヘテプ3世 (Amenophis III , 在位 BC1382 - BC1344)、ラメセス2世 (Ramesses II , 在位 BC1279-BC1213)の時に造られたそうだ。一番奥のサンクチュアリから大列柱廊までがアメンヘテプ3世の頃、その手前の(少し方角がずれて建てられている)部分とオベリスクがラメセス2世の頃に建てられ、その後地震で崩壊し、アレクサンダー大王 (Alexander the Great , BC356-BC323)によって再建された部分もあるそうだ。
ラメセス2世のオベリスクの高さは約25m(西側の1本は、フランスのナポレオン3世が奪った)、その傍らにあるラメセス2世の坐像は高さ25m、大列柱廊(The Colonnade of Amenophis III)の円柱は高さ約16m。
ルクソール神殿からカルナック神殿へはまっすぐ北へスフィンクス参道(Avenue of Sphinxes)が続いている。現在はカルナックへ行く道路となっているので、スフィンクスは見られないが…
http://www.egypt.co.jp/1Gururi/07honbun.html (日本語) 】
http://touregypt.net/lxtmpl.htm
http://www.eyelid.co.uk/luxor1.htm

ルクソール神殿を出て、歩道に停めておいた自転車のところに行く。先ほどのバクシーシ狙いのおっさんが、さらに仲間を増やして待ち受けている。おっさん、「自転車を見ておいてやったのだから、バクシーシをよこせ」。私、「ばかやろう、俺はそんなこと頼んだ覚えも無い、おまえが勝手にやったことだ」。おっさんは手下とともに自転車をつかんで離さない。無理やり振り切って発進する。後ろからアラビア語でののしりの声が…  おそらく、すぐ横の川に停めている観光用のボートのおっさんなのだろう。観光客が減って収入激減なのは分かるが、もう少し観光客の少ない時期が長続きすると、ああいうおっさんは絶滅するのかなと考える。

入り口にライフルと自動小銃を構えた警官にガードされたマクドナルドへ。アメリカ関連なので襲撃される危険性があると言うことなのだろう(ニューヨークのテロの件が無くても)。チキン・サンドのセットメニューで12.5 EGP (約 370円)。日本の感覚からは安いが、カイロ(約 8.5 EGP)と比べると観光地価格だ。まあ、清潔な店と、安全な食べ物の料金と言うか… 

ライトアップされたルクソール神殿  Temple of Luxor at night
(この写真はナイル川沿いの公道から撮影)

ホテルに戻り、昼寝。ついでに、カルナック神殿で買っておいた絵葉書(1枚 0.5 EGP)で友人に年賀状を書く。
17時ごろ、外へ。空気が悪い。砂埃と言うか、整備不良の自動車の排気ガスというか、夕食を造る民家の石炭ストーブの排気ガスのせいと言うか、ひどいものだ。もやっとかすんだ町を自転車に乗って駅のほうへ。駅前通り(Sharia al-Mahatta 通り)のレストランに入る。メニューは? アラビア語で理解不能。横のおっさんの食べている山盛りのコシャリを指差し、同じ物をくれと頼む。コーラとセットで 4.5 EGP。昼食べた店と違って、味はまあまあだし量も食べきれないほどある。店によりばらつきがあるようだ。(この店は、駅前通で一番目立つ店)

店を出て駅前通りを散策していると、「Japanese がそこにいる」とか何とか行ってくるやつがいる。確かに日本人らしき女性が居る。話を聞いてみると、エジプト人と結婚して(?)ルクソールに住んでいるそうだ。歩き方に出ているel-Salaam Hotel と同じ建物にある日本料理店をやっているそうだ。そこの主人(というか、彼女のだんな)がわけのわからない日本語で話し掛けてくるが、意味不明。オウムとか九官鳥に日本語のフレーズを教えて、それを無意味に話しているのと変わりない。彼女によれば、もう一人日本人観光客も居るということだったが、しばらくしたらその彼が戻ってきた。2日後にデンデラに行くがタクシーをシェアする人間を捜しているそうだ。(私は犠牲者にはならないし、デンデラはルクソール事件のテロリストの本拠地でもあり危険)
あまり乗り気ではないが、彼女の店(すぐ横)に行ってみることにする。安宿の3階にあり、当然客は誰も居ない。(というか、日本人パッカーを相手にしている店としか思えない) 情報ノートとやらがあるので見てみたが、これだけ観光地化されたところで見るべきものも無いし、ピラミッドに違法登頂するというのがやたら詳しく書かれていたのが印象的だった。
そのもう一人の旅行客は、鳩の料理を頼んでいた。わたしは、(ここでは食べる気がしなかったので)モロヘイヤのスープを頼んだが、なぜかジュースも付いてきて値段(計 4 EGP)も取られた。それにしても、この片言日本語のエジプト人は、客を客とも思わず、爆竹を入れたペンを持ってきて、驚かせて喜ぶは、モロヘイヤスープには石ころが入っているわ。ひどいところである。(歩き方にも、ここの宣伝が載っているが、シェフは日本人ではないし…。歩き方の取材能力はさすが世界一流である(?))

20時30分頃、再びルクソール神殿へ。オレンジ色のライトに照らされた神殿は幻想的だ。この辺りまで来ると、大気汚染もそうでもないような感じだ。(川沿いだから?)


DECEMBER 24 LUXOR-EGYPT
LUXOR - EGYPT (ルクソール、エジプト)
6時20分にホテルを出る。朝食が6時からという割には、団体客が来ない限りレストランを開けないようで、ビニール袋にパンとゆで卵などを詰めてもらい、外へ。
太陽が昇る寸前の、1日で一番寒い時間帯。「ユニクロ」のエアテック・ジャケット(宣伝ではありません)を着ているが、それでも寒い。(北米海洋気象局 www.noaa.gov のデータでは 最低気温 5.7度、最高気温 23.6度) 最低気温だけは日本の冬と同じくらいの寒さだ。

朝焼けに染まるネクロポリスの山々と、気球   Thebes Necropolis Mountain at early morning , Luxor

ルクソール神殿(入場口)の前の公共フェリー (public ferry) 乗り場に行く、ここにも観光用ボートの客引きがうじゃうじゃいてうそを並べ立ててくる。(公共フェリーは違うところに乗り場がある、自転車は運べない、遅いとか嘘八百である。) フェリー乗り場の前に小屋がありここで運賃を払うのだが、2.5 EGP も取られる。ついでに手書きで書いた変な紙切れを渡される。(後から考えると、復路用の証明書のようなもの?) さすがエジプト人、外国人からは幾らでもボッタクっていいようである。
がらがらのフェリーは、約5分で対岸に着く。自転車を下ろし、走り始めようとすると、再び怪しいエジプト人が声をかけてくる。「ネフェルタリのチケットはここでしか買えないとか、チケットはここにしか売っていないとか」。
2日もエジプトに居ると、エジプト人を信用しなくなるので、何を言われてもまったく無視である。

西に向けてひたすら走りつづける。乗合トラックが時折猛スピードで通り過ぎていく。東の空から太陽が昇る。王家の谷がある山の付近に、数個の気球が上がっている。観光客が乗っているのだろうが、さぞかし寒いことだろう。
草地の中の一本道を、およそ20分走ると、右手に石像が二つある。すぐ前には警察の軽装甲車がこちらを狙っている。(まあ、撃っては来ないだろうが…) メムノン像 (Colossi of Memnon) と言うらしい。アメンヘテプ3世 (Amenophis III , 在位 BC1382-BC1344) が神殿の門として建造したらしい。ほとんど崩れかけている。(神殿本体は、完全になくなっているそうだ)

山添いの小さな村 Dra Abu El-Nega Village , Luxor

さらに数分西に行くと、交差点があり、ここにも警官がたむろしている。歩き方によればこの辺りにチケット売り場があるはず。警官に聞いてみると、交差点のすぐ横の建物にあると言うことだ。山側から回り込んでみると、確かにチケット売り場らしきものがある。が、客が誰も来ていないので、気づかずに通り過ぎてしまうところだ。テーベ(ギリシア時代につけられた都市名で、古代エジプトでは『ワセト』と呼ばれていたらしい)ネクロポリス地区の全ての入場券をここで買わなければいけないようだ。(歩き方にもLonely Planet にもそう書いてあるが、王家の谷やラメセス3世神殿は入り口の前でもチケットを売っていた)
昨晩、半日で回れるコースはあらかじめ頭の中に考えておいたので、それに沿ってチケットを買っていくこととする。

王家の谷 (Valley of the Kings with three tombs) 20 EGP、ハトシェプスト葬祭殿 (Deir al-Bari : Temple of Hatshepsut) 12 EGP、ラメセウム (Ramesseum : Temple of Ramesses II) 12 EGP、ラメセス3世神殿 (Medinat Habu : temple of Ramesses III) 12 EGP。なぜかラメセウムとラムセス3世神殿は同じチケット(ラムセス3世神殿のチケット2枚)なので、間違っていないかと聞くと、係員はこれで入れると言う。まあ、ラメセスシリーズの寺院と言うことなのだろうか。ネフェルタリの墓は売っているかと聞くと、一番右側の窓口に行けと。お客など一人もいないのだから、横から切符取って来て売ってくれればいいものを…。右側の窓口に行き、ネフェルタリ (Tomb of Nefertari)の墓のチケット 100 EGP を買う。えらく高い墓だ。このチケット売り場だけで、156EGP (約4500円) も使ったことになる。『本当に感動するんだろうな』 > エジプト政府 !

王家の谷への緩やかな坂道を登ってゆく
easy slope to The Valley of The Kings , Luxor

7時ちょうど、切符売り場の前を北に向かって出発。ラメセウム(ラメセス2世神殿)の前で盗掘、いや発掘現場を見かける。えらく朝早くから発掘してるのだな。どんどん北上。東から昇ってきた太陽がまぶしい。所々に通勤客が乗合トラックを待っている。7時20分、交差点に検問のあるところに出る。小さな看板が、左折すると王家の谷と書いてある。警官に声をかけて、左折。西へ。目の前に山が迫る。手元の高度計で標高80m(気圧補正なし)。果たして何メートル登ることになるのか。マウンテンバイクは快調に走る。そういえばチケット売り場からすれ違った車はまだ数台だ。ここからはさらに車が少なくなる。(とうか、乗合トラックが10分おきくらいに走っているくらい)
きれいに舗装された広い道(山道とはいえないほどなだらかな道)は、右に左に曲がりながら谷の奥に入っていく。周りには木一本生えていない禿山の崖が迫り来る。7時50分、あっけなく王家の谷の入り口に到着。みやげ物屋が並んでいるが、一軒も開いていない。駐車場には観光バス1台と、警官の車以外には何も停まっていない。すいていそうだ。

さらに数百メートル行くと、入場口がある。ここにも警官。警察のバイクに並べて、マウンテンバイクを停める。標高100m。なんだ、高低差80mしかないじゃないか。歩き方には「行ける距離ではない」とか「死ぬかと思う」など大げさなことが書いてあるが、『季節による』のと『個人の感じ方』によるわけで、私が感じたところでは、「程よいサイクリング・コース」である。(まともな Lonely Planet にはそんなことは書いてないが…)

トトメス3世の墓の玄室 (王家の谷)
Tomb chamber of Thutmose III 's tomb , Valley of The Kings

入場口を入ってふと気づく、ツタンカーメンの入場料は何処で買うんだろう。入場口の金属探知機のおっさんに聞くと、入場口前のチケット売り場で売っていると。買ってくる。30 EGP。まず、ツタンカーメン (Tutankhamun 在位 BC1336-BC1327) の墓(1922年発掘)へ。入り口でカメラを取り上げられてしまう。(2台持っていると1台は隠して中には入れるかも…) 中に入る。湿っぽいむっとした空気が充満している。下まで降りて、右へ。目の前にツタンカーメンのミイラが横たわっている。(というか、ミイラを包む黄金のケースが見えている) 墓に入ると、『ファラオの呪い』があるとか言われているけど、これだけ観光地化しているとそれも「うすまって」いるだろう。金をふんだんに使った棺 (gold coffin) は数千年経った今でも怪しい光を放っている。ハワード・カーターが発見したときには、3つの黄金の棺があったそうだが、他の2つは現在カイロのエジプト博物館にある。目の前の壁には等身大より少し小さい絵(あの世でオシリス神がツタンカーメンを向かえる場面など)が描かれている。側壁にはなぜか猿が描かれている(これは、12時間を現す12匹のヒヒらしい、お間違え無いように)。外に出る。

さて、王家の谷の入場券で3つの墓に入れるはずである。ツタンカーメンのすぐ横にラメセス6世の墓がある。が、本日休館の模様である。どれにしようか迷っていると、怪しいエジプト人が近づいてくる。ラメセス3世、トトメス3世とアメンホテプの墓がいいと言う。勝手にガイドしながらトトメスの墓のほうへ上って行く。その辺りの景色を眺めながら、ゆっくりとついて行く。トトメスの墓のある峡谷に入る前の階段のところで、バクシーシをよこせと(やはり)言ってくる。「払うつもりは無い、どこかへ消えてしまえ!」と振り払って階段を登る。すぐ前にトトメス3世 (Thutmose III 、在位 BC1504-BC1450) の墓の入り口がある。簡易ヘッドランプを頭に巻いて、中へ入る。急な階段を下りていくと落とし穴があったり(今は木の橋がかかっている)ホールがあったりして、奥にAntechamber がある。壁面にヒエログラフでなにやら一面に描かれている。ここにもおっさんが居る。勝手にガイドをはじめようとするが、ガイド不要ときつく断る。さらに階段を下りて、玄室(tomb chamber)へ。おっさんは朝早くて眠たいのか、階段で寝ているようだ。悪いが写真をとらせてもらう(デジカメなのでこの暗さで手ぶれを起こすことが心配だが)。壁面にはほとんど白黒に近い絵が描かれており、天井は緑色の地に一面の星が描かれている。地下空間に天地を作ったわけである。(そういえば、中国西安の秦始皇帝陵でも天井には星空が描かれたらしいし、日本の飛鳥時代の古墳にも天井は星空を描いたそうだ。人間の考えること、何処も似たり寄ったり…)

王家の谷 (北を向いて撮影)
Valley of The Kings , Luxor

外に出て、今度はセティ2世 (Seti II , 在位 BC1200-BC1194)の墓へ。地味な墓だが、奥にミイラがある。(Lonely Planet によるとこのミイラは他人のものらしい) 実は、この墓に入ろうとしたのでなく、セティ1世の墓と間違えて入ってのである。

次にアメンホテプ2世(Amenophis II , 在位 BC1427-BC1392)の墓(1898年発掘)へ。入り口を入ってすぐの通路から、壁一面に絵が描かれている。緩やかな坂道を下に降りてゆく。途中に広い空間があり、左側にミイラを納めた棺があったりする。入り口から番人のおっさんがくっついてくるので、写真を取るどころでは無い。大きな部屋に出ると、次の番人のおっさんが居る。ここでトンネルは90度方向をターンして下に掘り進んでいる。階段を下りる。番人は眠いのか、階段のところで座り込んだまま、だらっとうたた寝をしてしまった。しめしめ、写真を撮れるぞ。とりあえず、蛍光灯で薄気味悪く(?)照らし出された、王の棺でも写真に撮っておく。ここの柱は等身大の神々の絵が描かれている。

墓を出て、ツタンカーメンの墓の方(中央の広場の方)へ戻る途中にあるベンチで、ホテルでもらってきた朝食をのんびり食べる。「墓場で、朝食。」 なかなかいい言葉の響きだ。そろそろ、観光客がちらほらとやってきたようだ。9時である。自転車の待っている入場口へ。観光客が列をなしてセキュリティチェックを受けている。私は、ここで入った墓は中にたった一人(その他に番人2人程度?)だったが、大量の観光客が一斉に中に入ると、単なる地下道だな。厳かさも、3500年の歴史もあったものじゃないだろう。『王家の谷へは、ライバルの居ない時間帯』に行ってください !

王家の谷 (Valley of the Kings)
ルクソール西岸(テーベ)の西の山の谷間にある、古代エジプト新王国時代 (New Kingdom)以降(BC1500以降)に作られたファラオの墓の集まった谷。ハトシェプスト葬祭殿の山をはさんだちょうど裏側にあたる。2000年現在、東の谷に58基の墓、西の谷に4基の墓が発見されているそうだ。
もっとも有名なのがツタンカーメン(Tutankhamun , 在位 BC1336-BC1327)の墓。1922年11月にイギリス人の考古学者ハワード・カーター(Howard Carter)が発見した。(アメリカ人ディヴィスが5年間発掘しても何も出ず、放棄した地区で1915年から掘り続け、発見したそうだ。) 入り口には「TUT・ANK・AMUN」と書かれているのでお間違えの無いように(?)。もっとも古い墓がトトメス1世(Thutmose I , 在位 BC1504-BC1492)の墓で、最も新しいものがラムセス11世(Ramesses XI , 在位 BC1099-BC1069) のものだそうだ。
http://www.touregypt.net/kingtomb.htm
http://interoz.com/egypt/kingtomb.htm (mirror of touregypt.net) 】
http://www.touregypt.net/featurestories/valley.htm

ファラオの呪い (curse of pharaoh)
墓を暴いた者は呪い殺すだと? そんなのうそでしょう。ツタンカーメン王の墓を暴いたハワード・カーターは65歳まで生きた。 (詳しくは… http://emuseum.mnsu.edu/information/biography/abcde/carter_howard.html
ただし、カーターに資金提供したカーナヴォン卿 (Carnarvon) はツタンカーメンの墓の発掘途中に死去した。これを見たジャーナリストは、カーナヴォン卿がロンドンタイムスとだけ契約したことを妬んで、『ファラオの呪い』と書きたてたらしい。(吉村作治教授の本より)

自転車に乗り、一気に谷を下る。といっても、ほとんど傾斜の無いだらだら坂。途中で数回自転車が止まりそうになり、こぎなおす始末。

ハトシェプスト葬祭殿 (ディル・エル・バハリ)
Temple of Deir El-Bahri / Temple of Hatshepsut

警官の居るチェックポイントの交差点を(南へ)右折。数分走ったところ( Dra Abu El-Nega と言う村らしい)で二股に分かれている道を、右へ。子供が追いかけてきたりするが、特に危害を加えられると言うわけでもない。道端には、給水馬車(馬がタンクを引いている)が停まっていたりする。5分ほどで、ハトシェプスト葬祭殿( Temple of Hatshepsut )と呼ばれる巨大なテラス式の神殿が見えてくる。ここが、あの『1997年 ルクソールのテロリズム』の舞台となった遺跡である。駐車場にはたくさんの観光バスが停まっている。土産物屋が駐車場に沿って一列に並んでおり、観光客が降りてくると、土産物屋のおやじがわっと駆け寄っていく。でも、あんなもの売れるのかねぇ。

ここでも、金属探知機による検査を受けて中へ。入り口から寺院までは、数百メートルの参道があり、観光客がうじゃうじゃと歩いている。人の流れの中を縫うように歩くと、『おぉっ、観光地に来たな』と感じる。葬祭殿に近づく。う〜ん、新しいのか古いのか分からない。(砂漠の国で、新しく建てている博物館と言われても分からないくらい、均整の取れた美しさと言うか、モダンなデザインと言うか…) 一番上の階(3階?)はスロープのところからロープで閉鎖されていて入れないようになっている。Lonely Planet や その他の資料を見ても、『20世紀になってから復元作業が続けられている』と書かれている通り、柱のところに建っている立像などは復元されたものなのだろう。(かけらを拾い集めて、モルタルのようなもので固めているので、言われてみればそうかなと見える。)
復元が終わっていないハトシェプストのレリーフは、さすがに痛々しい。顔の部分のみ見事につぶされたりしている。(トトメス3世がやったのか、イスラム時代に偶像崇拝禁止によりやられたのかは知らないが…)

葬祭殿を降りて、北側の山道を少し登ってみる。登り口辺りに新しい神殿を作っているのか、商業施設を作っているのか知らないが、何らかの建物を作りつつある。少し登ったところから見る葬祭殿が最も綺麗に見える。

ディル・エル・バハリ / ハトシェプスト葬祭殿 (Temple of Deir El-Bahri / Temple of Hatshepsut)
古代エジプトでファラオと呼ばれた唯一の女王 ハトシェプスト (Hatshepsut 在位 BC1473-BC1458) の葬祭殿。ハトシェプストは幼少のトトメス3世の王位を奪ってファラオになった人物らしい。ハトシェプストの死後、トトメス3世は神殿からハトシェプストの王名をことごとく消したので、現在王名が削り取られたヒエログラフが残っている。破壊された像は修復されカイロやニューヨークの博物館にあるそうだ。
(ちなみに、「ディル」というのはアラビア語で「修道院」の意味で、Temple of ... がついているのは変ですよね)
【 The Temple of Deie el Bahri  http://touregypt.net/bahari.htm

ここは、多くの観光客がテロリストに銃殺された舞台としても有名だ。ルクソール虐殺事件 (Luxor massacre ) と呼ばれるそのテロ事件では、スイス人43人、日本人10人、イギリス人3人など、計63人が殺害されたところである。確かに、入り口の方から攻撃されると、後ろは崖だし、逃げるところ無いですよね。今は、一応警察が軽装甲車などを出して守っているように見えますが、同じ規模の襲撃を受けたら、おそらく結果は以前と変わらないような気がする。
【 エジプト外国人観光客襲撃事件  http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/egypt.htm
【アメリカ合衆国 VOA の放送原稿より  http://www.fas.org/irp/news/1997/tourist_massacre_luxor.htm

10時、再び自転車に乗り、もと来た道を戻る。(ジャンパーを着ているせいで)だんだん暑くなってくる。Dra Abu El-Nega の交差点で南へ。早朝はほとんど車が走っていなかった道も、観光バスなどがちらほら通るようになっている。朝来るときに見かけた発掘現場は、昼の休憩のようだ。その発掘現場の横がラメセウムの入り口になっているようだ。自転車を入場口の前に止めて、中へ。ここでもまた、金属探知機。

ラメセウム (ラムセス2世葬祭殿) Ramesseum , Luxor

巨大な柱の立ち並んだ神殿だ。ラメセス2世(Ramesses II  在位 BC1279-BC1213)と言えば、2日前に訪れたアブ・シンベル神殿もこのファラオの作った神殿だ。巨大建築がよほど好きだったのか…。先ほどのハトシェプスト葬祭殿のモダンな造りとは逆の、巨大さから来る威圧感を感じるところだ。それに、またしても巨大なラメセス2世の立像。神殿の中では、ちょうど修復作業中で、(老人が)柱をモルタルで建造(?)しているところだった。
しかしながら、あのギリシアのパルテノン神殿さえ、『いつ修復終わるんだ』といわれるほど、かなり以前から修復していたらしい。(現地の老人に聞いても、「私が行った時も、そういえば修理してた…」と。) おそらく、ここエジプトでの修復作業も、数千年の長〜い計画でやってるのだろう。
傍らには、ばらばらになって崩れた柱が転がっていたりする。崩れ方はギリシア・ローマ文明の神殿遺跡と似ているが、のっぺりとした円柱に神々の絵とヒエログリフが描かれているのを見ると、「エジプトの遺跡」であるのを強烈に印象付けられる。

再び自転車に乗り、女王の谷にあるネフェルタリの墓を見に行こうと思う。ラメセウムの西側の平地には、貴族の墓がたくさんあるらしいが、あばら家もまたたくさんある。文献によれば、あの「あばら家」は墓の上に建っているらしい。(墓を地下室として寝室にしたり、トイレにしたり…) まったくひどい話だ。(住民にとっては、死活問題なのだろうが)
入場券売り場の方へ行く道から分岐し、西側の道を南下する。2人の欧州から来た観光客が、自転車をふらふらとこいでいる。マウンテンバイクでなく、普通の自転車。マウンテンバイクではほとんど高低を感じないこの地も、普通の自転車では…。すぐ横を時速30km程度の速度で一気に抜き去る。

王妃の谷と中央右よりにネフェルタリの墓の入り口が見える
Valley of The Queens

再び十字路の交差点。歩き方の地図と、現状の道路の角度がまったく違う。付近のエジプト人に「ネフェルタリ…」と聞くと西へ行けと言っている(ように見える)。とりあえず右折(西へ行く)してみる。山道となる。王家の谷に行く道どころでは無い急な坂道だ。道はさらに山をどんどん登っていくようだ。駐車場らしきところに到着。エジプト人発見。「ネフェルタリ…」と聞くと、「もと来た道を戻り(つまり坂を下って)、あの(どの?)道を右に曲がれ」との回答。この(ジャンパーを着て)暑い中を、必死になってかせいだ『位置エネルギー』をどうしてくれるんだ! と、愚痴ってもしょうがないので、坂を降りる。『あの』道とは、どの道なのだろうか。目の前には、山道が稜線に沿って山の上まで伸びている。観光客を乗せたラクダが1頭、稜線の上のほうにある何らかの建物(遺跡?)に向かって登っていくのが見える。『この道』なのか?それとも、土砂漠の500mくらい向こうに見える舗装された『あっちの道』なのか?

とりあえず、マウンテンバイクを山道の傍らに乗り捨てて、山道を登り始める。5分 登る…。急角度。どう見ても、この道を登った上に『団体の観光客』が行くような『屈指の観光地』があるとは思えない。おそらく、『あっちの(舗装された)道』が正しいのだろう。時刻は10時30分。ネフェルタリの墓は12時までとチケット売り場で聞いている。『あっちの道』が間違っていて、ここに引き返しても、間に合わんな…。賭けである。
マウンテンバイクに乗り、土砂漠を爆走する。土砂漠というより、小石砂漠だ。タイヤが小石を跳ね飛ばし、後ろに土煙を出しながらしばらく走ると、舗装道路に合流。舗装道路をしばらく西へ行くと駐車場。観光バスが停まっている。土産物屋の物売りを無視して、入場口へ。「ここは、ネフェルタリの墓があるところか?」と聞くと、「そうだ」との回答。場所はあっているようだ。

ラメセス3世葬祭殿 (メディネット・ハブ)
Temple of Ramesses III , Luxor

入場門を入って、すぐのところにネフェルタリの墓を発見。王家の谷は「谷間」という感じたしたが、こちらは「崖の下」と言う感じ(の狭さ)しかしない。さて、本日のメインイベントの、「ネフェルタリの墓 (Tomb of Nefertari)」は100EGPもする入場料を取るのだから、さぞかし感動させてくれるのだろう。(うわさによれば、修復しすぎて、オリジナルじゃないとの声も大きいが…)
王妃の谷の入り口で金属探知機チェックを受けたにもかかわらず、墓の入り口でまた金属探知機。やはり、なんとしてでも写真撮影を許したくないと言うことだろう。短い階段を降りて中へ。見事と言うか、なんと言うか…  真っ白に塗られた壁に、鮮やかなカラーで絵やヒエログラフが描かれている。これぞ、建設当時の姿だ。多くの人が「ネフェルタリの墓は最後に見ないと、他の遺跡で感動しない」と言っているのは、なるほど正しい。観ることの出来る部屋は2つしか無いが、どちらも完璧なまでに色が残っている。
で、普通の人なら「さすが保存状態がいいねぇ」と思うのだろうか。壁面に近づいてみると、どうも塗りなおしたもののような気がする。一部の人が言う「修復しすぎた」というのは、もしかすると、あたっているかも知れない。私は、「1300年前の彩色がここまではっきり残っているのは、かなり怪しい。塗りなおし説に1票」である。

【 Nefertari  http://www.touregypt.net/historicalessays/nefertari.htm
【 ネフェルタリの墓の写真 http://homepage.mac.com/scarab1/kings.html

ラメセス3世葬祭殿の崩れた大列柱室
Temple of Ramesses III , Luxor

チケットセンターの前を通り、ラメセス3世葬祭殿 (Temple of Ramesses III / Medinat Habu) へ向かう。本日最後の訪問地だ。巨大な神殿の入り口に自転車を停めて、中へ。ラメセウム(ラムセス2世葬祭殿)も大きいと思ったが、ここはさらに大きく感じる。やけに小ぢんまりしたアメン神殿の横を通り過ぎ、高さ27mの塔門(Pylon)を抜け巨大な葬祭殿に入る。この塔門の壁面には、スポーツをする神々が描かれている。庶民的というか…
巨大な柱が周りを囲む、巨大なホールを二つ抜けると、カルナック並みの列柱室があるはずだが、残念ながら BC27 年の地震により崩れてしまったそうだ。しかし、こういう年号がきっちり分かると言うのは、古代エジプトというのはたいした文明である。この頃の日本は、記録すらない…。
どこでもそうだが、この葬祭殿でも、バクシーシ狙いの自称解説者が現れるので、うっとおしい。こういった入場料を取っている施設内に、怪しい人間を出入りさせている現在のエジプト政府はたいしたこと無いですね。(古代エジプトの政府は、これだけの遺跡を残すくらいすばらしい文明だったのに…)

ラメセウム(ラメセス2世葬祭殿) (Ramesseum / Temple of Ramesses II)
ラメセス2世( Ramesses II 在位 BC1279-BC1213) を祈念して建てられた、2つの葬祭殿のひとつ。葬祭殿と言っても、一時はラメセス2世の避寒地として使われたこともあるそうだ。このアメン神殿は、現在ではほとんど崩壊しており、一部の列柱が残っているだけだ。
【 Ramesseum http://touregypt.net/ramseum.htm

メディネット・ハブ複合寺院(ラメセス3世葬祭殿を含む複合神殿) (Temple Complex of Medinat Habu / Temple of Ramesses III)
ラメセス3世 (Ramesses III 在位 BC1184-BC1153) を祈念して建てられた葬祭殿をはじめ、ハトシェプストやトトメス2世のアメン神殿(Chapel of Amun)などを要塞のような壁の中に持つ複合寺院(Temple Complex)
ラメセス3世は、父のラメセス2世が建てたラメセウムに痛く感動し、それより「小さな」神殿を建てたと文献にかかれているが、現在残っている遺跡ではこちらのほうが大きい。大列柱室の円柱は、現在では崩れてしまっている。
(ちなみに、「メディネット」とは 村を意味するアラビア語らしい)

ちょうど12時、メディネット・ハブを出て、東へ向かう。メムノンの前を通り過ぎ、ルクソールの町を目指す。冬とはいえ、かなりきつい日差しだ。朝持ってきた500mlのミネラルウォーターはすでに飲み干してしまった。のどが渇いたが、『普通の』雑貨店が存在しない。数キロメートル行くと、大量の学生が学校から出てくる。学校は昼までなのだろうか。国道53号線の交差点(ここにも検問がある)を過ぎたところに、店がぱらぱらと並んでいる。コーラを買う。2EGP。さらに1kmほど行くとボート乗り場だ。
早朝とは違い、人でごった返している。そこに、学校が終わった学生もわっとやってきて、2階建てのボートに(おそらく)定員を超えて乗り込んでいく。帰りは1EGP。

ナイル川を渡る渡河船。向こうにネクロポリスの山が見える。 Ferry on the river Nile , Luxor

ルクソール神殿の前のボート乗り場に着く。昼食を食べに、マクドナルドへ。スプライトは特大を頼んだが、よほどのどが渇いていたのか苦にならない。

せっかく自転車があるのだから、町の中の路地などを走り回る。表通りは、車や馬車が走り回り埃っぽいが、裏通りはそれほどでもない。いたるところで子供が寄ってきたり、追いかけてきたりする。外国人がよほど珍しいのか、裏通りに来るのが珍しいのか…。ホテルに戻り、昼寝。夕方、昨日買った絵葉書で年賀状など書く。自転車をレンタル自転車屋に返しに行く。夕食は、テレビジョン通りにあるイタリアン風エジプト料理店(?)で、スパゲティなど食べる。

昨日10EGPで買ったメナテル(民間の電話会社)のテレホンカードを使って日本の実家に電話をかけようとする。が、日本の識別コードを入れたとたんにキャンセルされる。どうなっているのだろうか。あきらめる。(知らせの無いのは良い知らせ… とか言うことわざもあることだし。)

夕食後ホテルに戻り、フロントで「例の詐欺師旅行会社」に電話をつないでもらう。「明日の切符をくれるのかどうかはっきりしろ。くれないのなら、ツーリスト・ポリスに通報する。」と言うと、旅行会社「明日の午後ホテルで渡す」と。私、「おとといから、期限を延ばしてばかりだ。おまえは信用できない。」と言うと、旅行会社「30分以内に行くから…」とさ。
30分ほど後、例の旅行会社の人間がやってきて、切符の束から1枚切符をくれる。おそらく、明日になるとあの切符は得意客などに売ってしまって、ほかの手段しかないから金を出せと来るところだったのだろうか。1等を頼んだはずが、2等を渡してきたので、詰問すると、ボスから何も聞いていないとのたまう。


DECEMBER 25 LUXOR-EGYPT
LUXOR - EGYPT (ルクソール、エジプト)

スーク(市場)  Souq (Market) , Luxor

今日は特にやることは無い。22時の列車に乗る時間まで、町の中で適当に時間をつぶすくらいだ。

10時過ぎ、チェックアウト。ホテルのフロントの横に、バックパックを預けて外へ。スークの東側にある、インターネットカフェへ。6EGP/hour と、この町で入った中では一番安い。通信速度も、どうせアナログ56kモデム(をカフェのコンピューターで共有している)なので、どこも似たり寄ったりだし。

ツーリスト・バザールをどんどん北上すると、一般人対象のスークとなる。野菜や果物、肉類から日用品まで何でも売っている。大きい川魚も売っている。そんな大きな町ではないのに、ここの混雑は凄まじい。そういえば、スーパーどころか、生鮮食料品の雑貨店さえ、スーク以外では見かけることが無いので、町じゅうの人がここに集まってくるのでこんなに混雑するのだろう。さらに北上すると、家具を売る店や金物店などが集まっている通りとなり、最北端まで行くと、例のカルナック神殿を望むことが出来る(つまり町外れ)。
再びスークの中心部分まで戻り、交差している大通り(Sharia Youssef Hassan)を東に行ってみる。この道は、郊外から出てきた人が乗ってきた乗合トラックがそこらじゅうにたむろしている。露天の店などもある。しばらく行くと、国鉄の線路を横切る。暴れるラクダを手なずけようとしている人が居る。ラクダはなにやら謎の声で鳴いて、右往左往。突然車道に飛び出し、車が急停車。制御不能のラクダは危険だ。周りのエジプト人も、成り行きを見守っていたが、そのうちラクダがおとなしくなり、解決したようだった。

下町の駄菓子屋  downtown sweets shop , Luxor

昼食は、またしてもマクドナルド。が、断水らしい。手を洗いにトイレに行ったが、水が出ない。店員が、断水なのでペットボトルのコーラしがないがいいかと聞いてくる。「よくない」という回答はどうせ用意されていないのだが…
駅前通の食堂などは、通常どおりやっているようなので、皿は洗ってないのだろうな。と思う。昨日入ったイタリアン風の店でも、皿は洗うというより汚いタオルで拭いているという感じだったので、あまり衛生面を気にしているような国民性で無いようだ。やはり、こういうときは欧米資本のファストフードが安全だろう。

それなりに時間をつぶし、夕食の時刻。まだ断水中のようだ。ホテルに戻る。ホテルの横にネットカフェがあるので、そこに入る。日本のニュースを見ると、いまだに某国の偽装船撃沈事件で騒いでいるようだ。アフガニスタンでは、ビン・ラディンがまだ見つからないので、だらだら爆撃が続いているようだ。2ちゃんねる掲示板でも見る。エジプト・スレがあったので、書き込もうとするが、プロキシ規制で書き込めない。

ルクソール駅付近。馬車や車が行き交う  Near Luxor station

ホテルに戻る。ロビーで日本人らしき男性が居たので、声をかけてみると日系ブラジル人だった。日本に留学している(おそらく)欧米の女性2人とグループで旅行しているそうだ。どうも、私の乗る列車の15分ほど前に出る『急行』に乗るようだ。9時15分、ホテルで荷物をピックアップし、駅へ向かう。最短コース(裏道を使う)で、駅まで15分。

改札のすぐ前に止まっている列車は、9時45分発の急行列車。私の乗る列車は、地下道を通っていくホームに停まっている。というか、車内清掃中だ。急行に比べ、えらく(グレードが)落ちる車両だ。といっても、アスワン〜ルクソールで利用した列車と同じグレードだが。ぱっと見たところ、冷房なし車両と冷房あり車両の2種類あって、私の車両番号は冷房あり車両だった。この季節、冷房があっても無くても、夜は寒いのだが。

列車の清掃が終わるのを待っているとき、エジプト人の青年と話をする。ケナからルクソールの大学に通っているらしい。英語は片言みたいだが、ぜひ日本語を学んでみたいといっていた。超就職難の中で、外国語が出来ると就職が有利らしい。かれは、「日本はいいよね。エジプトは何にも無いから…」と言っていたが、私は「エジプトには古代遺跡と言う、日本が持たない貴重な資源がある」と思う。日本は天然資源や観光資源など何も無いから、環境汚染を許容してでも工業を発展させないと食っていけないのだから。どちらが良いとは一概には言えない。とおもう。(特に、最近の日本の動きを見ていると、ますますそう思う)

22時ちょうど、列車は北に向けて出発する。列車には行き先表示など何も掲示されていないので、北に向かって走り出したと言うことは、カイロに行くと言うことである。一安心。各駅停車だけあって、30分に1回程度小さな駅に停まっていく。駅ごとに人が乗り降りし、だんだん乗客が増えてくる。午前2時ごろには、車内は通路まで満員になる。その上、カイロまで4〜5回も検札に来るので、寝ている暇も無い。