トルコと東欧 旅日記 : ウィーン - クラクフ - アウシュビッツ

July 5, 2000 (Wednesday)

Istanbul/İstanbul - Turkey (イスタンブール - トルコ)

テラスで朝食を食べていると、Lonely Planet "Turkey" の編集者である Pat Yale を見かける。こんなところに泊まって取材してるんだなぁと思った。

さて、昨日予約しておいた空港へのシャトルバスは、予定より15分早く10時45分に来た。(早めに旅行会社で待っていなかったら、置いていかれるところだった。)
さて、そのミニバンに乗り込むと、彼らは次の回収ポイント(たった1本裏の道)へ向かった。そこで、4人の客を乗せるが、彼らのうちの3人の切符が他社のものであったらしく、再び路上に放り出されていた。(私の乗ったバンの切符は青色で、もう一社は赤色だった)

バンはかなり手荒な運転で、空港へ向かった。空港到着11時20分。

アタチュルク空港はテロリズムに対する警戒のため、空港に入るだけでもX線検査がある。(その上、ターミナルに入るときにもX線検査があるのはかなり厳重だ。まあ、国内にさまざまな問題を抱える中近東の国だけはある。)

トルコのイミグレは厳しかった。普通の日本人は単独行動しないので、私を偽造パスポートを使って出国する悪人と思ったらしく、延々15分も審査された。ヨーロッパ人や、団体客には甘いが、ちょっと怪しそうな国籍や単独行動は徹底的に調べられ、ジプシー風の家族(シリア人で、夫はビジネスマンだと主張していたが)は別室に連行されていった。このようにして連行される人、多数。(幸い、私は連行を免れたのだが...)

私が乗ったのはオーストリア航空のフライトだったが、ラウダ(Lauda)航空の機材を使用していた。(実は同一会社なのかな?)
ドイツ系の航空会社らしく、シートは革張りで、かなり疲れる。(ドイツ人のような巨体だったら、楽なのかもしれない)

Vienna/Wien - Austria/Österreich (ウィーン - オーストリア)

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聖ステファン大聖堂
St. Stephen's Cathedral

OS894 便は、14時50分出発で、定刻どおり16時20分に WIEN に到着。入国審査は、やけにあっさりしている。(表紙の菊マークを見て、JAPAN ? と聞くだけで、中のページすら見なかった)

空港の地下には、ウィーン(Wien)のメトロが走っている。ホームまでエレベーターで直接降りる。ここで、ここがドイツ圏の国だとあらためて気づく。「殺風景」 この一言に尽きる。
チケットブースをやっと見つけて、ウィーン中央駅(Wien Mitte)までの切符を買う。ここの通貨 ATS は昨年から取っておいた 50 ATS 1枚だけだ。これは緊急用なので、この国ではクレジットカードしか使わない予定だ。
というよりも、この国での支出は、ポーランドへの切符を買うことだけの予定だ。

ホームのベンチに座っていると、日本人らしい女性がいたので話し掛けてみる。東京圏から来た女性で、会社をやめて旅に出たらしい。ドイツで友人と合流して、スイスに旅行に行くといっていた。
彼女にウイーンの見所(ただし、2時間しかないバージョン)を聞いてみると、聖ステファン大聖堂(St Stephen's Cathedral)だと教えてもらう。Lonely Planet "Central Europe" の地図によれば、WIEN-MITTE 駅から徒歩圏内だ。

列車はかなりゆっくり走って、17時30分にウィーン中央(Wien Mitte)駅に到着。彼女と別れる。

さて、空港(Wien Flughafen)の駅では売ってくれなかったウィーン〜クラコフ(Wien -> Krakow)のチケット売り場を探す。まず最初に手近なチケット売り場に聞いてみると、そこはメトロ専用だった。隣のインフォメーションに行って聞いたら、隣のオーストリア国鉄の予約センターに行くよう言われる。予約センターは日本でいえば JRのVIEW とか TiSとか言うような、鉄道会社の旅行代理店部門で、「座って」予約ができる。ウィーン〜クラコフのチケットは、運賃が 478 ATS、簡易寝台料金が 190 ATS。
ちなみに、クラコフ(Krakow)から先の予約は取れない模様だ。

ウィーン南駅(Wien Sud)から出るクラコフ(Krakow)行きの列車は21時25分発だ。ここからウィーン南駅までの移動時間を考えると、ウィーン観光は2時間30分以内に抑える必要がある。

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新王宮 Neue Hofburg

さて、駅から外に出る。適当に歩いてきた人を捕まえて、聖ステファン大聖堂(St. Stephen's Cathedral)の方向を聞く。メトロに乗って... 教えてくれたが、歩いていくならどちらの方向かを聞き出す。

公園を抜け、ウォルツァイレ通り(Wollzeile Strasse)を歩くこと15分。聖ステファン大聖堂(St. Stephen's Cathedral)が左手に現れる。見事なゴシック建築の大聖堂だ。中に入ってみる。大きさとしては、そんなに巨大な教会と言うわけでもない。(イスタンブールのアヤ・ソフィア St. Sophia よりはるかに小さい) が、重々しいその内装に感心する。
大聖堂の外には、さまざまな国から来た団体ツアー客がわんさかいる。久しぶりに日本人の団体を多数見る。

Lonely Planetの地図によれば、ここからそう遠くないところにHofburg (=王宮:帰宅後日本語が分かった。Alte Hofburg :旧王宮)という巨大な建物がある。とりあえずそちらを目指して行ってみる。
10分程度歩くと、壁面に彫刻を配した建物の前に出る。ミヒャエル広場(Michaeler Platz)という所らしい。建物を貫通する道路があり、通り抜けられそうなので入っていく。
建物を抜けると、 王宮(Hofburg / Imperial Palace) の正面に出る。その円柱面で切り取ったような均整の取れた建物は、夕日を受けて輝いている。

宮殿の前の芝生広場(Helden Platz)では、たくさんの(高級そうな)犬が走り回っている。 芝生広場の隅にあるベンチに座って、休憩。

19時、中央駅(Wien Mitte)へ戻り、メトロに乗り南駅(Wien Sud)へ。この駅からは東欧、イタリア方面への列車が発着する。結構寂れた感じのする駅だ。
韓国人大学生の群れがうろうろしている。しかしながら、彼らのファッションセンスはナンセンスだ。どうして日差しのきつくないような国で帽子をかぶっているのも変だし、落ち着かなくそわそわしているのもどこで見かける韓国人集団とも共通している。
おそらく、日本の大学生が夏休みや春休みにグループとしてバックパッカーもどきをしているのも、かなり奇異なものなのだろう。(私は、彼らと鉢合わせするような季節には、旅に出ないことにしている)

Train : Wien -> Krakow (ウィーン → クラクフ)

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ウィーン 南駅に入線したポーランド方面行き列車
night train for Poland, Wien Sud Bahnhof

21時10分ごろ、ポーランド行きの列車が入線する。10両編成くらいの列車のうち、2両がクラコフ(Krakow)行きで、残りはワルシャワ(Warsaw)行きだ。ほとんどの乗客はポーランド以東へ里帰りする人で、少数の欧米人旅行客が乗車してゆく。(アジア人は、ほとんど乗車しなかったようだ。)
私の乗ったのは、Wagon No.342 Platz No.26 の LIGGE WAGEN(フランス風に言えば、クシエット) だ。同じコンパートメントには、私と、ポーランド系アメリカ人女性の2人だった。

列車は21時25分、定刻通り発車。まもなく車掌が検札に来る。窓を少し開けていたのだが、車掌より閉めるように注意された。彼がアメリカ人女性に(ポーランド語で)説明した内容では、「停車中に、車外より催眠ガスがコンパートメント内に吹き込まれ、意識を失っているうちに身包み剥がされると...」鉄道会社ではジプシーの犯行だと断定的に言っていた。(確かに、私も多くのジプシーの生活スタイルには疑問を持っているので、さもありなん。)

22時ごろ、Hohenau駅に停車する。オーストリアからチェコへの国境だ。オーストリアもチェコも、国境警備はパスポートにスタンプを押さなかった。ビザ条件に問題があったのか、一人のおっさんが引き摺り下ろされていた。

July 6, 2000 (Thursday)

Kraków - Poland (クラクフ - ポーランド)

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中央広場の(詩人)アダム・ミツキエヴィッチ像
statue of Adam Mickiewicz

2時ごろ、チェコからポーランドへ。ここでも、パスポートは表紙を見せるだけですんだ。

朝起きると、すでにクラコフ(Kraow / クラクフ)の郊外を走っているようだった。同じコンパートメントのアメリカ人は、第2次世界大戦直後からクラコフに住んでいたようで、共産主義者がいかにクラコフの街をスポイルしたかを説明してくれた。
クラコフ技術大学(Krakow Politeknik)のビルを過ぎると、すぐにクラコフ駅(Krakow Glowny)に到着。

駅舎から出て、大通りをくぐる地下道(共産国的だなぁ〜)を通って旧市街へ。地下道の出口のATMで出金しておく。

まずはホテルを探しに出かける。Lonely Planet に載っている 40 USD 程度以下のホテルをまわってみるが、どこも満室と断られる。結局旧市街を完全に1周して、駅まで戻ってしまう。駅のちょうど手前に Hotel Europjeski というホテルがあるのを見つけ、入ってみると部屋が空いていた。
早速荷物を部屋に置いて、朝食に出かける。旧市街のマクドナルドに入る。チキンバーガーとオレンジジュースで7.9 PLZ。物価はかなり安いようだ。(マクドナルドの価格だけを比べると、トルコより安い)

駅(Glowny)に行く。切符売り場のインフォメーションで、オシフェンチム(Oswiecim)への列車の乗り継ぎを聞く。その後、切符売り場で切符購入。8.7 PLZ。

Oświęcim - Poland (オシフィエンチム - ポーランド)

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トラツェビナ(Trazebina)行きの列車は、のろのろと田園地帯を走り、決して遅れを取り戻すためにスピードアップせず、きっかり10分遅れて10 時30分にトラツェビナ(Trazebina)に到着した。ホームの先端に別の列車が停まっているので、そちらに乗り換える。こちらの列車は定刻通り10 時30分発車。大きな川を渡り、工場の間を抜けるとすぐにオシフェンチム(Oswiecim / オスウェンチム)駅に到着。11時15分。

線路を渡って、駅舎を抜けて駅前に出る。雑貨店が数件あるだけの田舎町だ。(それでも、この辺では中規模の工業都市らしい)
駅の横にオシフェンチム(Oswiecim)市の地図が出ているので、アウシュビッツ(Auschwitz)への方向を確認する。
線路に沿って伸びる道を、Krakow と反対方向(チェコ方向)へ5分程度歩くと、線路を越える陸橋が見える。そのたもとに「Museum Auschwitz」という道路標識が出ているので、そちらの方向へ(南東へ)向かう。なお、この陸橋を渡って線路の向こう側へ2km程度行った所がアウシュビッツ2・ビルケナウ収容センター(KL Auschwitz II - Birkenau)であるが、オシフェンチム(Oswiecim)市外なので何の標識も無い。
そこから工場の間を歩くこと15分程度、左手にアウシュビッツ(Auschwitz)博物館の駐車場が出現する。
歩いて行く人は、かなり遠く感じるので注意してください。なお、バスもあるそうですが、そんなに本数は多くないようです。(一度もバスに抜かれなかったため)

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アウシュビッツ強制収容所跡の門
Auschwitz concentration camp Gate with "Arbeit Macht Frei"

駐車場の南側に博物館の入り口がある。入場料を支払う必要は無いので、素通りしてもいいが、レセプションで登録すると小さなパンフレットをもらえる。

さて、このレセプションを抜けて、ちょっと歩くと、あの有名な「 ARBEIT MACHT FREI 」のゲートがある。(どんな意味かは、ドイツ語辞典を調べてくれ!) ここが、アウシュビッツ収容センター(KL Auschwitz -I)跡だ。
煉瓦造りの倉庫のような建物が整然と並んでいる敷地に、青々と茂る木々が美しいこの土地が強制収容センターであったのは信じられないような気もする。観光バスに乗って来たたくさんの団体観光客が建物に入ったり出たりして見学している。
最も目立つのは、ドイツ方面からきている中学生や高校生の団体だ。夏季学校(Summer Schule)なのだろうか。

それぞれの建物は、内部を展示場として使用しているので、強制収容センターだった当時の設備を生で見ることはできない。建物ごとに展示内容は違っていて、一般展示と個別国の展示がある。個別国の展示はその国の言語でしか解説がなされていないので、対象国以外の人が入っても、そんなに興味の湧くようなものではないと思う。

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アウシュビッツ強制収容所跡の建物群
Auschwitz concentration camp

最も印象的なのが、収容センターが捕虜から没収した膨大な物品を保管していたということだ。捕虜が連行されてきたときのトランク(どれも大体同じ大きさで、70cm*40cm*30cm位のごげ茶の人工皮革のトランクに、名前と住所などがでっかく書かれている)、靴やサンダル、めがね、なべやコップなどの金属製品、などなど。
なぜこんなものを分別して収集していたのか? 再利用しようとしたのか? ドイツ政府の考えていたことが理解できない。
最悪なのが、捕虜から切り取った毛髪をうずたかく保管していたことだ。説明文によれば、毛髪を織物にして再利用していたそうな。化学繊維は無かったのか! 信じられない。

ある部屋には、捕虜を処刑していたガス処理室で使用していた化学薬品(たしか、チクロンBだったと思う)の空き缶まで大量に保管しているのは、なんか馬鹿みたいな感じだ。なんで使用後すぐに、さっさと処分しないのだろうねぇ。

収容センターの当時をしのぶ施設として、トイレやシャワー室、収容室(ベッドが並んだ部屋)が展示されているが、中に入ってみることはできない。(ほんの一部分しか展示されていない)

収容センターの北東の端には、捕虜を処刑したガス処理室の跡がある。

カメラは持っていたのだが、どうしても内部を撮影する気になれなかった。あまりの大量の捕虜がここで殺害されたので、なんだかこの場所にいるだけで気分が重くなってくるような感じだ。

12時過ぎ、北のほうから雷鳴が鳴り響き、急に土砂降りの雨が降り出す。レセプションセンターのある建物で雨宿り。
13時過ぎに、雷雲が通り過ぎ再び晴れ間が。アフリカからの熱風がオーストリアあたりまで入っているらしいので、この辺の大気状態が不安定になっているのだろう。

13時30分、レセプションセンターの前からビルケナウ(Birkenau)行きのバスが出る。1.5 PLZ。先ほどの陸橋を越えて、鉄道の向こう側にあるアウシュビッツ2・ビルケナウ収容センター(KL Auschwitz II - Birkenau)まで約10分。バスにはアメリカからの団体客も乗ってきたので、満員だ。
バスは収容センターの正面に停車する。

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ビルケナウ強制収容所跡 Birkenau concentration camp

こちらも、レセプションセンターで登録すると、パンフレットがもらえる。

正面の門から、中に入る。アウシュビッツ収容センター(KL Auschwitz - I)よりはるかに広大な敷地に、煉瓦造りの建物が遥かかなたまで続いている。一部の建物は、焼け落ちたのか破壊されたのか知らないが、マントルピースのみ残っていて、そこにもかつて建物が規則正しく建てられていたのが分かる。

捕虜を乗せた有蓋貨車が到着したと思われる線路に沿って、収容センターの奥のほうへ行ってみる。3本ほどに分岐してどこまでも続く線路は、かなり長大編成の貨車が運行されていたと推測される。KL Auschwitz - I は ARBEIT MACHT FREI の字のごとく、ごく少数の捕虜は生きて出られた。だが、(博物館の説明によれば) KL Auschwitz - II Birkenau は『絶滅』収容センターとして、運び込まれた捕虜をすべて処刑するために作られた場所らしい。

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ビルケナウ強制収容所跡のフェンス Birkenau concentration camp

線路をはさんで左右に分かれて広がる膨大な数の宿舎郡は、ガス処理センターの処理能力を調整するための「バッファー」として使用されたと思われる。
鉄条網で数十棟ごとに区画された宿舎郡は、男性捕虜用、女性捕虜用などと分けられていたらしい。また、ガス処理センターへ送る優先順位順にSSが貨車から降りるとすぐに分別して収容していたとの記述もあった。

このセンターでは、当時のまま保存された宿舎内部を見学できる。今見れば、ユースホステルのドミトリーを思ってしまうが、おそらく1ベッドに1人というわけでなく、多量の捕虜を缶詰状態にしていたはずなので、伝染病も蔓延したことだろう。(おそらく、冬は猛烈に寒かったと思う)

この文章を読んで、オシフェンチム(Oswiecim)を訪れる方は、ぜひビルケナウ(Birkenau)も訪れることをお勧めします。予想を遥かに越える巨大な収容センター跡は、成功することの無かった旧ドイツ政府の実験を考えるのにいい場所だと思います。感動とかそういうものは無いけれど、広島の原爆ドームを見たときよりも歴史の重みを感じることができる場所でした。

アウシュビッツ絶滅収容センター についてのデータ
(from Le Libre de la Deportation, Marcel Ruby 著)

1940年4月27日 ヒムラー(後の内務大臣)により開設命令。1940年6月14日、ポーランド人収容開始。当初は、ポーランド人のみ収容。1941年6月4日、チェコ人収容開始(その後、さまざまな国より運び込まれてくる)。このアウシュビッツ - I 収容所は他の2つの付属施設の管理部門が置かれていた。
アウシュビッツ - I には、当初から死体焼却プラント(脱衣所 - ガス室 - 焼却炉がセットになった建物)が建設された。1941年 秋より1942年10月まで利用された。

1941年10月、ビルケナウに付属収容所建設開始。アウシュビッツ - II として運用される。また、付近の農家(2軒)の建物を接収し、ガス室に改造。第1・第2ブンカーと呼ばれる。死体は野焼きされていたそうだ。

1942年 春 ユダヤ人収容開始。

1942年、モノヴィッツに労働キャンプを建設。アウシュビッツ -III として運用される。

1943年 夏、ビルケナウに死体焼却プラント4機建設完了。(1機あたり 1500〜2000人/24時間の処理能力の計画だったが、建設資金の予算不足により、所期の能力を発揮できなかったらしい。) 結局処理しきれない死体は野焼きされたようである。

1944年11月3日、最後の捕虜輸送列車の到着。

1944年11月26日 ヒムラーにより焼却プラントの撤去命令(犯罪行為を隠匿する目的で)。

1945年1月17日〜19日 撤退開始。病人を残し、他の捕虜をブーヘンヴァルト と マウトハウゼンに移送する。

1945年1月27日 ソ連軍により開放される。残存捕虜 7650人。

アウシュビッツで殺害された捕虜の数は 約 1,200,000 人 (推定方法により 800,000 〜 4,000,000 人の幅がある)。
なお、アウシュビッツで登録番号を割り当てられた捕虜は 405,222 人なので、ここに入らなかった 800,000 人ほどは収容所到着直後に(労働不適格の診断で)ガス室送りになったと思われる。
ドイツ政府が収容対象としたのは、ユダヤ人、マロ人(ジプシー)、同性愛者、共産主義者、政治犯。

なお、ドイツ全体での収容所抑留者総数 5,400,000 人。うち死亡者数 4,300,000 人。(推定値)

さて、北のほうからまたしても雷雲が接近してきた。駅まで早歩きで戻る。約25分かかる。オシフェンチム(Oswiecim)からクラコフ(Krakow)へは、ローカル列車と EC の2種類が走っている。ためしに EC に乗ってみようと思い、切符を購入する。往路のローカル列車は 8.7 PLZで1時間30分、復路の EC は 37.88 PLZで1時間15分。乗り換えがあったとしても、ローカル列車のほうが得ではないだろうか。

列車は20分遅れの 15時27分、Oswiecim を出発した。

July 7, 2000 (Friday)

Kraków - Poland (クラクフ - ポーランド)

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ヴァヴェル城 Wawel Castle

明け方には下痢も収まり、朝食は普通どおりにホテルで食べる。10時過ぎにチェックアウト。荷物をGlowny 駅に預ける。

まず、クラコフ旧市街に隣接するクラコフ城(Wawel ヴァヴェル城)へ向かう。旧市街中心の中央市場広場(Rynek Glowny)を通り過ぎて、街の南端まで行く。すぐ右手の丘の上に建物が見える。これが城のようだ。
観光客が歩いて登ってゆく坂道に沿って、登ってゆくと入り口があった。

城内には、ここもまた無料で入場できるようだ。宝物館へは入場券が必要で、入り口の左手にチケットブースがある。
20人程度並んでいる最後尾に並ぶ。30分しても一向に進まない。チケットを売る気がまったく無いのか、団体客のツアーコンダクターが買い占めているため、入場制限がかかっているのかは知らないが、あまりにあほらしいので並ぶのをやめる。

城内で無料で入場できる建物は、教会だけだ。教会に入ってみる。小さい教会だが、王室の御用達だけあって、豪華な装飾品が飾られている。
城内のトイレを利用して(料金は、利用者が決めるようなので、0.5 PLZ払った)、庭園でしばらく休憩する。
日本人の団体客もちらほら見かけるが、ほとんどが欧米からの客だ。

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グロツカ通り(城へ伸びる道)から中央広場を望む
Grodzka Str.

再び旧市街に戻り、中央市場広場(Rynek Glowny)のカフェで休憩。さすが、というかおのぼりさんばかりの観光地だからか知らないが、オープン・カフェの前にやってきて、ラジカセから大音響で音楽を流しトルコ風のベリーダンスを踊って、カフェに座っている客から強制的にチップをせびる大道芸には閉口する。
私は、このような連中には当然チップを渡さないが、ダンサーがテーブルを回っていくと、ほとんどの客がチップを渡していた。

広場の中央には織物会館(Cloth Hall)という建物(以前は、繊維物品の卸売り場)が建っている。内部は、観光客向けのお土産屋さんだ。この建物で利用価値のあったのは、1階の両端にあるトイレ 0.3 PLZ だけだった。

さて、中央広場から土産物屋や両替所が並んだ道を北へ行くと、旧市街を取り囲んでいた城壁の遺構が残っている。道路が貫通するところには、フロリアン門(Florian Gate)があり、外部へ抜けることができるようになっている。(1週間前に滞在した ギリシアのロドスの城壁に比べて、非常に脆弱に見える)

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そのすぐ北側のマティキ広場通り(Plac Matejki)にインターネット・カフェがある。(Lonely Planet に載っていた)
入ってみると、2台のコンピューターがあり、1台は誰かが使っているようだ。
ここで、一応メールのチェックはできたのだが、ここの店主の態度は最悪だった。ダイヤルアップでつながっているルータに、3台のコンピューターがぶら下がっており、それぞれのコンピューターには上限速度の設定はなされていない。1台のコンピューターは隣のパソコンソフト店に設置されており、この2台を同一人物が使用しているようだ。隣のコンピューターを観察すると、FTPで大量のファイル(おそらくLinuxディストリビューションのファイルだったと思う)を連続でダウンロードしており、ほとんどのトラフィックがそちらに使用されている。店主に遅いのでどうにかならないかと言ってみたら、「リロードしたら」ととぼけたような答えを返す。隣で大量ダウンしてるんだが...と言ってみても、馬鹿にしたような笑みを浮かべて知らん振り。
料金取る商売してるなら、もうちょっとまともにしたらと言いたくなる。

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オスカー・シンドラーの工場跡 現在は、クラコフ機電会社TELPODの工場
former Osker Schindler's factory

さて、クラコフといえば旧市街が有名だが、私の見たところでは単なる観光地でたいしたこと無かった。(昨年訪れたザルツブルクと同一で、観光地化されすぎている)
私がクラコフで期待したのは、オスカー・シンドラーの足跡を見ること。そう、あの 映画「シンドラーのリスト」の主人公のドイツ人が経営した「ドイツ・ホウロウ容器工場」がクラコフ郊外にあることだ。
現在では、当然別会社となっているが、工場自体は残っているそうだ。

中央駅前から2系統のトラムに乗り、ヴィストゥラ(Vistura)川を渡った1つ目の停留所で降りる。
Lonely Planet にはその住所しか載っていないので、その辺にいる人に聞きながら工場を目指すこととなる。さらに、その辺にいる人は英語が通じず、ロシア語で聞くといやな顔をされるので注意を要する。
(ちなみに、住所は UL. Lipowa 4, Podgorze, Krakow である。地元民には Telpod Electrical Factory の方が有名なようだ。)

トラムの停留所から東に歩くこと10分程度、Krakowskie Zaklady Elektroniczne の黒いビルの前を左折すると、すぐ右側にシンドラーの工場跡がある。現在では TELPOD の看板が掲げられている。

観光地で無いせいか、何の案内看板も無いが、2人の旅人が見にきていた。また、個人で観光ガイドを雇った旅行客が、バンに乗ってやってきていた。映画で見たのと少し違う気がするが、確かにあの工場だったような感じがした。

さて、その夜は 22時42分発の列車でプラハ(Praha / Prague)へ向かった。(Train 207、Wagon 355、Platz 73) 列車は4両編成だが、2両はウィーン行きだ。今日のコンパートメントは、アメリカやメキシコから来た若者で満員だった。料金は運賃141.4 PLZ、簡易寝台 39.77 PLZ。